§4-6 理性的形而上学的思考のすすめ

要約

多くの人は神や霊魂を認識することに困難を感じている。それは彼らが自分の精神を感覚的な事物以上に高めないからだ。即物的思考に慣れすぎると、映像を思い浮かべられないものが認識できなくなる。ところが神や霊魂の概念は感覚的でも映像的でもないから、神や霊魂の映像を思い浮かべようとするのは、音や匂いを眼で見ようとするようなものだ。

抽象的思考によっても神と霊魂の存在を納得しない人は、例えば肉体や星や地球の存在でさえ、形而上学的には確実でないことを理解するべきだ。我々は睡眠中でも、他の肉体を持ち、他の星、他の地球を夢に見ることができるではないか?夢は覚醒時に劣らず生彩があり鮮明なことがあるが、何を根拠に、覚醒時に感じる肉体や星や地球の存在が、夢に現われるそれらよりもより確実だと証明出来るのであろうか?

私は神の存在を仮定しないかぎり、この疑問は取り除けないと信じる。

(我々が肉体や星や地球の存在を真だと思うのはそれらが明証的であるからだが、)
私が前述した明証性の規則、すなわち我々が明瞭かつ判明に心に思い描けるものがすべて真実であるということさえ、神が存在し、我々の中に真理を置いたと考えなければ確実とはならないのである。明証的な概念は神に由来するからこそ、真実であると言える。逆に神以外には、どんなに明証的な概念にも、真実であるという完全性を保証出来ないだろう。

ちなみに、覚醒時か睡眠時かは真実性には無関係である。なぜなら、我々は、神に由来する明証性によってでなければ確信を持つべきではないからだ。例えば、睡眠中に幾何学者が何か新しい証明を発見したとしても、眠りはその証明の真実性を妨げない。どんな思想も、それが生じたのが覚醒中でも睡眠中でも、その真実性には関係がない。
(以降は、不完全性と理性による補完について述べる。)
神が置いた明証的な概念と違って、不完全な我々が生じさせた概念は、混沌として曖昧で虚偽を含んだものであることが多い。

また、感覚や想像はしばしば我々を騙すことを忘れてはいけない。
感覚は、我々が覚醒中でも睡眠中でもしばしば我々を騙す。それは例えば黄疸にかかった人に全てのものが黄色く見えたり、星や太陽や非常に遠距離にある物体の大きさを錯覚するようなものである。想像もまた我々を騙す。我々どんなにはっきりと牝山羊の胴体に接ぎ合わされたライオンの頭が想像出来ても、そのような怪物は存在しない。
だから我々は理性のみを信じるべきである。

理性は、感覚や想像による誤謬を退ける。しかし同時に理性は、我々の全ての観念または概念は若干の真実性を持つことを教えてくれる。真実の起源である神は、若干の真実性とともにそれらを我々のなかに置いたのだ。

ただ、我々の理性や推理は、眠っている時には目が覚めている時ほど明証的でも完全でもない。夢のなかにおいてよりも、特に目覚めている時の思考に真実性が見いだされるものだ。

解説

確かに我々が認識しているものは、我々が不完全である以上、実際に存在するかはわからない。
方法序説の182年後、哲学者のショーペンハウアーは1819年の著書「意志と表象としての世界」で、「物自体」など存在せず、全ては表象が存在するのみであると主張した。
さらにショーペンハウアーは理性の力は神が人間の中に置いたものではなく、生存のための意志が生存に有利になるために生み出した道具であると考えた。
進化論が証明された今日では、こちらの考えのほうが真実に近いと考えられる。

また、ここでデカルトが問題にしている物質の存在の概念は、科学では、再現性とオッカムの剃刀の2つの概念によって補強されたと考えられる。つまり科学は、物質が存在するかどうかはわからないままだが、物質が存在すると仮定すれば再現性のある事象を最もシンプルに説明できるのだから、物質が存在すると要請するのが最も良いと結論した。

デカルトが現代に生まれていたらどう考えたのかが興味深い。

§4-5 神の存在証明2

要約

真理の一種として、幾何学者の対象がある。例えば、ひとつの連続した物体、すなわち長さ、幅、高さ、深さにおいて無限に広がり、そして種々の形と大きさを持ち、どんなふうにでも動かされ、位置を変えられることの可能な、種々な部分に分割することのできる空間という概念がある。

しかし、全ての人々がこういった概念に見出している確実性は、我々がそれを明証的に理解するという点以外に根拠が無いのだ。当然、幾何学のの証明のなかにも、その対象の存在を保証するものは何も無い。例えば三角形を仮定すれば、その三つの角の和は180度に等しくなければならないが、この世界にこうした三角形など存在しないのだ。

完全な幾何的観念をさらに検討するなら、

  • 三角形の観念にはその三つの角の和は180度に等しいということが含まれ
  • 完全な球の観念にはその表面の各点は中心から等距離にあるということが含まれ

ているのと同様に明証的に存在するという属性が仮定されているから、我々がこれらの概念を認識出来るのだ。

したがって完全な存在である神にとって「存在する」ということは完全性の属性のひとつであるから神は存在し、我々も神を認識出来る。幾何学の概念の存在が確実であるのと同様、神の存在も確実である。

解説

神の存在証明の根拠の2つめは、「存在とは神が実現する属性の一つである」という論理である。
なぜ人間がそうした概念を操れるのかは、確かに不思議である。プラトンがイデアと呼んだ概念を人間の中に「置いた」存在が、デカルトの言う神である。

しかしこの論法だと、人間が想像可能な『完全なもの』は全て存在することになる。
完全なものがその完全性ゆえに存在するという論法は、アンセルムス(1033年 – 1109年)に遡る、原始的な詭弁術であり、「本体論的証明」と呼ばれている。

§4-4 神の存在証明

要約

前述の通り、私は全てを疑うことに決めたが、逆にそれは自らの不完全性の属性であると認識していた。真理を知ることは誤謬を除くことよりも優っており、「完全な存在」の属性であると考えた。

私より完全ではない物質、たとえば天、地、光、熱などならば、不完全な私であっても認識し、それに関して思想を持つことが出来る。つまり、それらの認識や思想が真であれば、私の本質から生じたと言える。逆に偽であれば、それは虚無=私の欠点から生じたと言える。

しかし私は完全な存在をも認識し、それに関して思想を持っている。しかし不完全な私になぜそれが可能であるのだろうか?私は、私より完全なある本質が私にそれを可能にさせているのだと明証的に直観したのだ。

完全な存在の概念が、偽の認識と同様に、虚無や私の欠点から生じたという主張は不可能である。真の認識と同様に、不完全な私自身から生じたとするのも無理がある。
すると、完全な存在の概念は、私よりも真に完全で、しかも不完全な私がそれについて若干の観念しか持ち得ないあるひとつの本質、すなわち神によって、私のなかに置かれたとしか考えられない。

そして、神自身の存在も次のように証明される。私は自分から遠い完全性を知っているのだから、私は唯一の存在ではなく、私が依存し私の持っている部分的な完全性の起源である、神もまた存在しなくてはならないのだ。
なぜなら、もし私が自分の力で完全性を得ることが出来るなら、同じ方法で、私は全ての種類の完全性を得ることが可能で、私は無限で、永遠で、不易で、全知全能な、神に匹敵する完全性を得るだろう。そうではないから、やはり完全性の起源が存在するのだ。

完全性の起源たる神には、何らかの不完全さを示すようなものは無いはずだ。私は、懐疑、無常、悲哀のようなものは、忌避されるもので、神のうちには存在しえないと思った。

以上のほかに私は感覚的で、物体的な事物についての概念を持っていた。自分が見たり、想像するものが仮に存在しないとしても、自分は夢を見ることが可能だから、それらの概念が私の思惟のなかに存在するのは確実であった。

また、神は物質と精神とから構成されてはいない。
あるものが合成されたものであるということは依存と不完全さを意味する。
人間は叡智的性質(精神)と物質的性質の合成であるが、神は完全であるから、神はこれらのふたつの本性の合成ではない。
むしろ、世界にあるあらゆる物体や叡智の存在が、神の力に依存しながら存在しているのだ。

解説

神の存在証明の根拠の1つめは、人間がアプリオリに「完全な存在の概念」を知らされていることである。
なぜ人間がそうした概念を把握出来るのかは、確かに不思議なことではある。
ただ、それだけから神の存在証明が可能だろうか?

§4-3 明証性の真実性の証明

要約

私はさらに深く考え、

「わたしは考える、だから私は存在する」

というこの命題には、これが真理だという確信を抱かせるものは、この命題の明証性以外には何もないことを発見した。

私は、いま真実であることが確実な命題を一つ発見したのだから、この確実性が何において成立しているのだろうと考えたのだ。

私は、ひとつの命題が真実であるために必要な条件を一般的に考えた結果、明証性、つまり「我々が非常に明瞭かつ判然と心に思い描くもの」は全て真実であると考えた。

ただし、判定の困難性、つまり我々が判然と心に描くものが何であるかを明確に定義することの困難性は残った。

解説

デカルトの予想に反し、明証的なものは真理とは限らない。
デカルト自身、§2-4で明証性は真理の必要条件であると言っているのに、ここでは真理の十分条件であると主張しており(第三段落)、論理が飛躍している。

だが、人間は明証的なものを真理と信じて迷い無く生きるのが一番良いのかもしれない。

§4-2 霊魂の存在証明

要約

全ての存在を疑うこと、とくに、

  • 自分の肉体
  • 自分の存在する場所としての世界

が実は存在しないのではないかと疑うことは可能である。

しかし、考えている自分が存在している以上、その存在を疑うことは出来ない。疑っている事実自体から、自分の存在が明証的に直感されるからである。

では逆に、自分が考えることをやめてしまったらどうなるだろうか。私はその場合に自分が存在すると信じるどんな根拠も無いことを発見した。

つまり、私という存在は、考えるという事実に支えられており、考えることだけが存在の本質であると考えた。

考える=存在するためには冒頭に挙げた肉体にも世界にもどんな物質的な物にも依存しない。

この考える実態こそが霊魂であると私は考えた。肉体は感覚を通して認識される以上、霊魂は肉体より認識しやすいものである。

だから、肉体が存在しなくても、考える霊魂は存在し続けるはずである。

解説

明らかに、肉体が死を迎えた後の霊魂の不滅性は、この論理では証明されてはいない。現代においても、霊魂の不滅性は証明することも反証することも出来ないが、1934年になって、科学哲学者のカール・ポパーが「反証不可能性」を提唱し、反証不可能なものは科学で無いという基準を示したぶん、確実に進歩していると言える。

デカルトにとって霊魂の不滅性は明証的であり、ゆえに真実であった。つまり、次章もまた誤謬である。

§4-1 コギト・エルゴ・スム

要約

私がオランダでなしとげた最初の諸省察は余りに形而上学的で、一般の人々には受け入れがたいものとなってしまった。しかし私はあえてそれを話し、私が選んだ基礎が十分堅固かどうかを人々の判断に委ねなければならない。

かつて私は他人の意見に盲目的に従う必要がある場合もあると主張したが、真理の探求に専念した今、逆に全てを疑う必要があった。少しでも疑えるものは即座に虚偽として破棄した。全てを破棄したあとで、私は疑う余地のない何かを確信できると信じた。

全てを疑うとは、具体的には以下の通りである。

  • 感覚はしばしば我々を騙すから、どんなものでも感覚通りには存在しない
  • 単純な幾何学でさえ、推論を間違える場合があるのだから、自分の「論証」と全ての論拠も虚偽である
  • 自分の精神のなかの全ての思想は、眠っているときの夢と同様に虚偽である

しかしその後ですぐに私はつぎのことに気がついた。このように全てを虚偽と考えようと欲していた間にも、そう考えている「私」はどうしても何ものかでなければならないということであった。それは、

「わたしは考える、だから私は存在する(我思う、ゆえに我有り)」

ということだった。この真理は、懐疑論者のどんなに途方もない仮定によっても揺らがせることが出来なかった。

私はこれを、哲学の第一原理として何の懸念もなく受け容れることができると判断した。

解説

コギト/cogito=私は考える
エルゴ/ergo=だから
スム/sum=私は存在する

§3-5 2度目の旅立ち

要約

上記3つの格率の目的は、自己の理性を教化し続けることであった。

私がしばらく他人の意見で満足することに甘んじた(格率1)のは、時機が到来した暁には私自身の理性でそれを検討するつもりだったからだ。そして、そのなかにより優れたものを発見することを期待していた。「ありとあらゆる知識の獲得」のための、自分の方法を信じ続けた(格率2)からこそ、自分の欲望を制限し、自ら満足することが出来た(格率3)。

良い判断が出来れば、結果が出る。その結果に対し、我々が法則を確信する時、我々は満足を覚える。

私はもはや、自分の意見の残りの全てから、いつでも自由に脱却できると判断した。

だから、この暖炉部屋にそれ以上閉じこもるよりは、世間と交わるべきだと考え、冬のうちに再び旅に出た。その後九年間、私は世間を見物する以外には何にもしなかった。

私は、岩石や粘土を見いだすために土や砂を取り除くようにして、全てを疑い誤謬を根絶したあとに残ったものから確信を得た。私はほぼどんな命題からも、十分に確かな何らかの結論を引きだした。

自分の意見を疑い破棄するとき、私は観察によって多くの経験をえた。古い住居の材料を新しい家に再利用するように、私はその経験を、後にもっと確かなものを建設する際に役立てた。

私は自分の方法を練習し続けた。私は自分の全ての思想をこの方法の規則によって導いた。
私は時間を確保し、数学や、確実な部類の科学の難問にこの方法を適用した。(後述)

静かな邪念のない生活を送っていた私は、人には、有り余る余暇に退屈しのぎをしているだけに見えただろう。しかし私は絶えず自分の計画を追求し、真理の認識に前進した。私は、読書や、学者との交際以上の経験を得た。

しかしこの九年の月日は、哲学の基礎の探求に手をつけられないまま過ぎ去った。優れた人々が失敗するのを見て、私は怖気づいた。しかし私は、すでに哲学の基礎の確立に成功していると噂されていた。
私はかれらが何を根拠にそんな評判を立てたのか知らないが、恐らく以下のことから、私を過大評価したのだろう。

  • 私は率直に、自分の知らないことは知らないと告白した
  • 私はどんな他人の学説にも頼らなかった
  • 私は人々が確実だと見做している事柄を疑い、その理由を示すことが出来た

私は過大評価を嫌い、自分が評判に値するように努力した。そして八年前、私は知人のいそうなあらゆる場所から遠ざかり、オランダに引き篭もった。オランダは80年戦争により秩序と平和を確立していた。大都会の便宜がありながら、群衆は勤勉で、人里離れた場所のように私は孤独な隠遁生活を送った。

解説

9年が過ぎた時デカルトは32歳であった。その時に閃いた考察が、第四部の中心となる。

§3-4 最善の職業を選ぶこと

要約

私の最後の格率は、人々がこの世界で持っている各種の職業をひと通り調べて、最善の職業を選ぶことだった。

他人の仕事について何も言うつもりは無い。私は、理性を教化し、自分の方法で、真理の認識に前進すること以上のことは出来ないと考えた。

この職業に、私は大きな満足を感じていた。
この世に、自分以上に、楽しく、純粋な満足を味わえる人間は誰もいないと信じた。私は自分だけが知る、重要な真理を毎日のように発見して、満足を得ていた。それに比べれば、他の事柄は少しも私を感激させなかった。

解説

現代でも良く「好きを仕事に」というキャッチフレーズは言われる。デカルトはただ一人自分の道を歩んで、そう言った。

§3-3 自分に打ち克つこと

要約

私の第三の格率は、つねに運命よりも自分に克とうと努力することである。世界の秩序よりも自分の欲望や思想を変えるために努力することである。

私は手に入れることのできないものは一切望まず、満足して暮らした。
我々の意志は、もともと我々の悟性が何らかの仕方で可能だと提示した事柄でなければ望まないように出来ている。
我々がシナやメキシコ王国が自分の所有でないのを遺憾に思わないのと同様に、財産を諦めればそれが無いことを遺憾には思わない。
同様に、我々がダイヤモンドのように腐らない体や、鳥のように飛べる翼を持とうと望まないのと同じように、病気の状態でむやみに健康になりたいと願ったり、囚われの身の状態で自由を願わずに済む。
こうした思考は習慣付け可能である。

しかし私は、万事をこのように眺める習慣がつくまでには、長期間の鍛錬と省察が必要であることを認めざるをえない。

ストア派の哲学者たちは、思想以外には自分達の力の範囲内には何も無いと結論し、他の事物に対する愛着を持たずに済んだ。
だから彼らは苦しみや貧困にも関わらず、神に匹敵するほど幸福だったのだ。
彼らは自分の思想を思い通りにしていたから、自然や幸運に恵まれていてそれを活かせない人々よりも、自分達ははるかに富んで、力にみち、自由で幸福であると考えた。

解説

デカルトの「方法」とは全てを疑い、自分のみと向き合うストイックなものである。また、物質的なものを脱却したいという考えが、随所に現れている。

ここでの価値観は、幸福とは主観の持ちようであるというショーペンハウアーの幸福論に酷似している。

§3-2 一度決めたらやり切ること

要約

私の第二の格率は、自分の行為に断固かつ毅然とした態度をとることで、極めて疑わしい意見でも、一度決心した以上は、それが極めて確固とした意見であるかのように一貫することであった。

私は森のなかで道に迷った旅人をまねた。彼らはあちこちに方向を変えてぐるぐるさまよい歩いてはならないし、一か所に留まっていてもいけない。彼らは偶然にしろ一度決めた同じ方角に向かって絶えず歩き続けなければならない。
そうすれば、彼らは少なくともどこかへは行き着くはずであり、それは森のなかにいるよりはましだからだ。

実生活上の行為は一刻の猶予も許さないが正解はわからない。だから一番それらしい意見に従わなければならない。
我々は結局はどれかに決心しなければならない。
そして、それに決心させた根拠は真実で確実なものなのだから、迷いが生じても、一貫して行動しなければならない。
このことは、迷いによって生じる後悔や良心の呵責から、私を解放する力を持っていた。

解説

デカルトの選んだ生き方は、ひょっとしたら何も生み出さない生き方かもしれなかった。前章では、「闇の中を独り行く」生き方だと書かれていた。それでも、一度決心したことを続け、デカルトはどこかにたどり着いた。