§2-2 苦痛と退屈

人間の幸福に対する二大敵手は 苦痛と退屈 原文検索 である。

苦痛から遠ざかれば退屈に近づき、退屈から遠ざかれば苦痛に近づくというように、われわれの生活は、苦痛と退屈の間の振り子運動である。例えば下層階級の人々は困苦すなわち苦痛と不断に闘い、これに反して富貴の社会は退屈を闘っている。退屈から逃れるために、困苦から生じた文明の最低段階である流浪の生活が、文明の最高の段階に見られる漫遊観光を通じて結局再現されているのである。

退屈の根源は内面の空虚であり、あらゆる種類の社交や娯楽や遊興や奢侈を求める心となる。この空虚が多くの人が浪費に走らせ、やがて貧困に落ちる。こうした貧困を最も安全に防ぐ道は、内面の富、精神の富である。優れた頭脳は全く退屈知らずで、同時に高度の感受性を持つから、意志、情熱の人一倍の激しさを根本としている。そのため、苦痛に対する感受性が高まり、才知に富む人間は何よりもまず苦痛のないように努め、安静と自由な余暇とを求める。そのために静かでつつましやかな、誘惑のなるべく少ない生き方を求め、いわゆる世の常の人間というものに多少近づきになってからは、むしろ隠遁閑居を好み、いっそ孤独をすら選ぶであろう。

人の本来具有するものが大であればあるほど、外部から必要とするものはそれだけ少なくて済み、自分以外の人間というものにはそれだけ重きを置かなくてよいわけである。
だから精神が優れていれば、それだけ非社交的になる。逆に精神的に貧弱で下等な人間であれば社交的だ。この世では孤独と共同生活とのいずれを選ぶかということ以外に格別の生き方もないのである。

余暇の時間に凡夫はただ時を過すことばかりを考える。

cards

どこの国でもおよそ社交界の主要な仕事は、トランプ遊びということに相場が決ってきた。トランプ遊びは社交界の価値を計る尺度であり、あらゆる思想の欠如を示す破産の宣告だ。彼らは交わすべき思想の持ち合せがないから、トランプの札を交わし、互いに金をふんだくろうとする。ああ、何とみじめな輩だろう。あらゆる奇襲あらゆる手管を弄して、他人のものを奪い取ろうというトランプ遊びの精神は、実生活に根をおろし、たまたま自分の手中にあるならどんな利益でも法的に許されるかぎりは争って差し支えないという傾向になってくる。

輸入の必要のない国がいちばん幸福な国であるのと同様に、内面の富を十分にもち、自分を慰める上に外部からは何ものをも必要としない人間が、いちばん幸福である。こうした供給は多くの費用を要し、輸入国を従属的な地位に立たせ、危険と不満をもたらし、結局は自国の生産物の埋め合せにはならないからだ。

§2-1 朗らかさ

自己の生涯にどういうことが起きるかよりも、その起きたことをどう感ずるかということ、すなわち自己の感受力の性質と強度とが問題である。個性は一瞬も働いていないときはないが、他のいっさいのものは機に臨み折に触れて一時的に働くにすぎず、そのうえ世の有為転変にも服している。してみれば、優れた性格と頭脳と楽天的な気質と明朗な心と健康頑丈な体格、宿る健全、われわれの幸福のためには第一の最も重要な財宝である。

さてこういった種々の財宝のうちで最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗らかさである。直接幸福を与えるものは朗らかさ以外にないのだから、朗らかさぽかりはいわば幸福の正貨であって、他のいっさいのものと同じような単なる兌換券ではない。

朗らかさを得るためには、

  • 健康
  • 気質

が必要である。

だからわれわれとしては何よりもまず完全な健康を得て、そこから朗らかさが花と咲き出るように心がけるがよかろう。日々適当な運動をしなければ、健康を維持することができない。すわりっぱなしの生活様式の数知れぬ人たちのように、外部的な運動がほとんど無いに等しい場合には、人体内部に満たされた不断の運動の間に、有害な不調和が生ずる。それは、何らかの激情のため胸の内は煮えくりかえっているのにそれを少しも表に現わしてはならないといったルールで縛られているかのような生活である。何よりもまず互いに健康状態を尋ねあい、互いに無事を祈りあうのは、理由のないことではない。このことから出てくる結論として、最大の愚行は、何かのために自己の健康を犠牲にすることである。利得のためにせよ、栄達のためにせよ、学問のためにせよ、名声のためにせよ、まして淫蕩や刹那的な享楽のためにせよ、健康を犠牲にしてはならない。

さて、朗らかさは健康だけで左右されるものではない。完全な健康に恵まれていても、憂鬱な気質とか沈みがちな気分とかがありうる。精神的感受性が異常に大であれば、間歇的には過度の朗らかさが現われるが、主としては憂鬱が基調になるというような、気分のむらが生ずる。天才も過度の精神的感受性によって生れたものであるから、アリストテレースが「哲学にせよ、政治・文学・芸術にせよ、すべて優れた人間は、憂鬱であるとしたものらしい」と指摘した。

陰気な人間は十の計画のうち九までが成功しても、この九を喜ばずに、一の失敗に腹を立てる。陽気な人間は、これと逆の場合にも、一の成功でみずから慰め、自分を明朗な気分にする骨を心得ている。せめてもの埋め合わせは、陰気型の性格の持主は、朗らかな呑気な性格の持主に較べると、想像上の災難や苦悩を多く経験させられても、現実の災難や苦悩を嘗めさせられることは少ないことだ。楽観的な誤算が少ないからである。

健康と部分的に似たものは美である。美は事前に人の歓心を買う公開の推薦状であり、男子にとっても非常に有効である。

§1-3 内面の貧困

人のありよう(1)が重要だとはいえ、時の力には、肉体的な美点も精神的な美点も、しだいに征服される。この点では、あとの二つの見出しに属する財宝のほうが、時の力によって直接奪われないだけに、第一の見出しに属する財宝よりもまさっている。さらにそれらは獲得可能なものであって、誰でもそれを手に入れる見込みだけはある。そのため、人間は精神的な教養を積むよりも富を積むほうに千万倍の努力を献げている。

本当は富の獲得に努力するよりも、健康の維持と能力の陶冶とを目標に努力したほうが賢明である。しかも実は有り余る富は、われわれの幸福にはほとんど何の寄与するところもない。というのは、富は現実の自然な欲望を満足させるだけで、むしろ大きな財産の維持のために不可避的に生ずる数々の心労のために、かえって幸福感が害われるくらいだからである。多くの人間は富を殖やすための手段の世界を自己の視界とし、この狭い視界からそとに出れば、何一つ知らない。精神はからっぼで、最高級の持続的な享楽、すなわち精神的享楽は、高嶺の花である。金持ちに不幸な人が多いのはそのためである。

暇はかからないで金のかかる刹那的な享楽をむさぼって、最高級の享楽のうめ合せをしようとしても、その効果は知れたものだ。内面の空虚と精神の貧困が、彼らを社交界に走らせるが、この社交界がまた彼らと同様の人間の集まりだ。はじめは各種の遊興に娯楽や慰安を求めるが、あげくの果てには淫蕩にこれを求めるようになる。金持ちに生れてきた長男殿が莫大な遺産をあっという間に使いさってしまうことがよくあるが、こうした手のつけようもない濫費の原因は、今言ったような精神の貧困と空虚とから起きる退屈以外の何ものでもない。

天罰覿面、とどのつまりは内面の貧困が外面の貧困までも引き起したわけである。

§1-2 精神的な享楽

人間は3種類の享楽を生み出した。

  1. 再生力の享楽。飲食、消化、休息、睡眠など
  2. 刺激感性の享楽。遊歴、跳躍、格闘、舞踊、撃剣、乗馬、運動、狩猟、闘争、戦争など
  3. 精神的感受性の享楽。考察、思惟、鑑賞、詩作、絵画彫刻、音楽、学習、読書、瞑想、発明、哲学的思索など

しかしこの中で、

  • 最も高尚で
  • 最も変化に富み
  • 最も持続的

な享楽は3番目の精神的な享楽である。

頭脳次第で、豊かでおもしろく味わい深いものにもなれば、世界は貧弱で味気なくつまらぬものにもなる。聡明な頭脳にはかくも痛快に映ずる出来事が、愚鈍平凡の頭脳から見ると、日常茶飯の世の中のおもしろおかしくもない一場面に変わってしまう。
ゲーテとバイロンの詩を読んでも、愚かな読者は、詩人の経験した惚れぼれするような出来事を羨みこそすれ、ごく平凡な出来事をかくもすばらしく造りあげた想像力を羨ましく思うことはない。位階や富の差に比例して幸福や愉楽の内面的な差異ができているわけではなく、どんな栄耀栄華も、愚者の鈍い意識に映じたものであれば、セルヴァンテスが居心地よからぬ牢獄でドンキホーテを書いたときの意識には比すべくもなくみすぼらしい。

人間に与えられる幸福の限度は、個性によって、あらかじめ決まっている。それは、精神的能力の限界によって精神的な享楽の能力が決まっているからである。精神的な享楽の能力が低い人間は、感能的享楽、家庭生活の団欒、低級な社交、卑俗な遊楽などに頼る生活を抜けきれない。

人々は大抵われわれの運命すなわち有するもの(2)あるいは印象の与え方(3)ばかりを計算に入れているが、人のありかた(1)によって大勢は決まってしまうのである。内面的な富をもっていれば、運命に対してさほど大きな要求はしないはずである。

さらに、人柄(1)はわれわれから奪い取られることがない。その意味で、他の二種の財宝(2)(3)が単に相対的な価値をもつに反して、人柄の価値は絶対的な価値だということができる。

§1-1 人間の三つの根本規定

人間の幸福度の差は、3つの根本規定に帰着できる。それは次の3つである。

  1. 人のあり方、すなわち人品、人柄、人物。
  2. 人の有するもの、すなわち所有物。
  3. 人の印象の与え方、すなわち他人にどういう印象をいだかれるか。

Human

(1)は自然が設けたもの、(2)と(3)は人間が設けたものである。

(1)が、単に人間の設けた(2)と(3)による影響よりも、はるかに本質的・根本的であることは、想像がつくはずである。例えば、人のあり方(1)のうちには、内心の快不快が直接宿っている。これに反して外部にあるいっさいのものは、間接的に内心の快不快に影響を及ぼすにすぎない。

幸福論序文 幸福な生活とは何か

幸福な生活とは何かといえば、主観的に、生きていないよりは断然ましだと言えるような生活のことである。

われわれは幸福な生活を求めて生きているのであって、ただ単に死の恐怖により生き永らえているのではない。しかし、人生がこういった幸福な生活に合致することがありうるかどうかということには、私の哲学はと答えている。

したがって、幸福論という言葉そのものがバナナの叩き売り式の美辞麗句に過ぎないのであり、この論述は妥協の産物である。この本の内容も、古代の賢者の言葉を繰り返し述べたものに過ぎない。

目次:

§1-1 人間の三つの根本規定

§1-2 精神的な享楽の能力

§1-3 内面の貧困

§2-1 朗らかさ

§2-2 苦痛と退屈

§2-3 俗物(フィリステル/Philister)

§2-4 最も幸福な内的生活

§3-1 海水

§4-1 人の与える印象

§4-2 名誉欲

§4-3 虚栄心

§4-4 誇り

§4-5 3つの名誉

§29 意志の最終目的/世界は盲目的な意志である

この世界は、意志であり、そして同時に、表象であることがこの章までで明らかになったことと思う。

さらに、我々はおのれ自身も意志であることを知った。同時に、おのれ自身が認識出来る世界は、表象としてのみ現実的な存在を有していることを知った。

特別に、いまのうちに論究しておきたい問いがある。
意志はなにかをしようとする意欲、目標をそなえている。
してみると、意志は、いったい最終的には何を欲しているのか?

根拠の原理は現象にだけ及ぶのであって、そもそも物自体=意志には及ばない。動機付けの法則も、こうした根拠の原理が形をなしたものである。意志は無根拠である。

どの人間も、つねに目的と動機とをそなえ、それに従って自分の行動を導き、自分の個々の行動について常時、弁明することを心得ているのに、しかしいったん彼に、そもそも何故なにかを意志しているのかと問うたなら、彼はなんの答えももたないだろう。むしろ質問自体が、彼には馬鹿げたものに思われるだろう。意志がそもそもなにかを意志するのは、当り前なことだからである。意志はただ、その個々の現象においてのみ、動機によるこまかな規定を必要としているだけである。

人間の努力や願望もこれと同じことである。

努力や願望を実現することは、意欲の最終の目標であるようにいつでもわれわれは信じこまされているが、努力や願望はいったん達成されてしまうと、はじめの努力や願望とはもはや似ても似つかぬものに見えてくるため、あれは一時の錯覚であったとして脇へよけられてしまうものである。

まだなにか願望すべきもの、努力すべきものが残っている間は十分に幸福でいられるのに、移り変りが停滞すると、この停滞は生命を硬化させる怖ろしい退屈、死にたい思いにさせるほどの憂鬱となってあらわれるのである。

意志は、自分がそもそも何を欲しているかということをけっして知らない。総体としての意欲は目的をもっておらず、意欲が存在していること自体には意味が無い。ただ、

世界は盲目的な意志である

のみである。

そして動物の中で人間にのみ、この意志を否定出来る可能性が残されている。

§26 イデアの対立、因果性による共存

イデアとは、意志の客観化の段階、一定の固定したそれぞれの段階のことである。
イデアには低位のイデアと高位のイデアがあり、段階的である。

意志の客観化のもっとも低い段階として現われるのは 、重力や不可入性 、剛性、流動性、弾性、電気、磁気、各種の化学的性質といった諸力である。 意志の客体性の高い段階になると、個性がかなりきわ立って現われる。 ことに人間の場合に、個性は、性格のいちじるしい違いとして現われる。 動物にあってはこの個性的な性格は概して欠けている。 植物になると、土壌や気候の良し悪しといった外的な影響と以外は、個体としての独自性をまったくそなえていないものとなる。 結晶は樹木とよく似ていて、もろもろの小さな植物を一つにあつめた組織的凝集体である。 無機的自然界においては結晶以外には、個性的な性格という痕跡をとどめた個体そのものは見出されない。

われわれはこのような段階のひとつひとつを、プラトンの言う意味でのイデアと名づけている。
しかし、同一の物質の上に、各イデアが同時に存在できるわけではない。一つの物体を時間的に追跡していくと、次々に現象を変えていく。例えば鉄の分銅は重力と不可入性を利用して機械を動かす。しかし分銅に磁石が近づけば、磁力は重力に打ち勝ち、機械は止まる。分銅を亜鉛版の上に移動し、酸性溶液を流し込めば、ガルバーニ電流が生じる。温度を上げて純粋な酸素を吹き付ければ、機械全体がたちまち燃え上がる。燃焼によって生じた金属カルキに酸を結合させれば、結晶が生まれる。やがて結晶は風化し、他の元素と混ざり、そこから養分を受けて植物が生育する。

永遠のイデアのすべての現象か同一の物質に頼っていればこそ、現象の登場・退場規則か成り立たざるを得ないのである。 同一物質における相対立したイデアの共存をひとえに可能にしているのは時間の差である。 また相対立したイデアのもとでも同一物質は不変であることを可能にしているのは空間である。こうしたことの一般的な可能性か因果性もしくは生成にほかならない。 わたしが物質とは徹頭徹尾、因果性であるとかつて述べておいたのもそのためである。 因果の法則は、自然の諸力のいろいろな現象か、時間や空間や物質をたかいに分け合って所有するときに規準となる限界を定めるのである。

自然力はいつでも、自分が出現して、一定の物質を自分で占領し、これまでその物質を支配していた諸力を追い払ってしまうことができる状況の到来を、いわば待ち焦れているようにみえる。 マルブランシュはその著『真理の探求』のなかで、ことに第六巻第二部第三章と、第三章のうしろに付録として加えた「解説」のなかで、この「機会因説」を述べ立てている。 自然界の原因は、例の単一であって分割することのできない意志が現象するための、チャンスやきっかけを与えるにすぎないというのだ。すべての原因は機会因である。現象の出現点を定めるのかもぱや原因や刺戟ではなく、動機であるような場合、つまり動物や人間の行動においても、事情はまったく同じであるといえる。動機か規定するのは人間の性格ではなしに、性格の単なる現象、すなわち行為にすぎないのだ。性格は意志の直接的な現象であるから、無根拠である。動機が規定するのは彼の人生航路の外的な形態である。その内面的な意義や実質内容ではない。

§27-5 闘争のための道具(認識/悟性/理性)

各イデアにとっての闘争のための道具として、認識が誕生した。

植物界や、運行や発生や成長といった植物的な動物現象では、無機物界と同様、闘争を呼び起こすのは刺戟である。
しかし、動物が多様化し、相互に邪魔し合うようになると、単なる刺戟によっては十分な食糧を得られなくなった。
そこで刺戟ではなく動機に基づく運動と、それを可能とする認識能力が必要となった。

動物において飢餓衝動が消化器官として現象したように、認識は脳髄や神経節といった器官として現われた。
認識という道具が現われるとともに、表象としての世界、すなわち客観と主観、時間、空間、数多性、因果性に支配された世界が、動物の前にいっきに成立した。
そうはいっても、動物がそなえているのは単に直観的な表象に過ぎず、まだ概念や反省をそなえているわけではない。
この認識能力が、悟性である。

人間の場合、動物において生じた悟性認識だけではもはや十分とはいえない。
悟性は感覚からデータの提供を受けるが、それだけではただ現在に縛りつけられた単なる直観しか生まれてはこないからである。
未来と過去の展望を可能にするには、直観的認識に対して概念の形成能力と反省能力がつけ加わらなければならなかった。
この認識能力が理性である。
(しかし、すべてに取って代わるはずの熟慮が、逆に不確実性や誤謬の可能性も生むこととなった。これは無機界における確実性と対照的である。)

このように認識の起源をただせば、もともとは意志そのものから誕生しており、認識が意志に奉仕し意志の目的を実現するためのものであることがわかる。

ごく少数の人間だけが認識を意志への奉仕から解放することができる。これは第三巻のテーマである。

また、その中でもさらに少数の人間だけが、意志の否定へ到達できる。これは第四巻のテーマである。

§27-4 無機的な自然界における盲目の衝動

まだいかなる化学的差異も発生していないほど遠いところまで原因と結果の鎖をさかのぼって考えて、無機的な自然界について考えよう。そのような世界の意志の客観化を決定づけるのは、牽引力と反撥力の間の闘争である。

牽引力はは重力のこと、反撥力は物体の不可入性のことである。牽引力におけるこの休みのない衝迫、反撥力におけるこの休みのない抵抗は、最下位の段階における意志の客体性である。

最下位の段階においては、意志が盲目の衝動として、暗鬱で朦朧とした騒乱として立ち現われている。このような盲目の衝動は直接認識することのできない相手(表象ではなく意志)である。無機的な自然界においては、あらゆる根源的諸力において、意志はこのような盲目の衝動として現象する。