§9 詭弁

概念は、表象の表象である。

表象が直観されるものであるのに対し、概念、表象の表象は、決して直観されることは無い。

概念の本質は、関係(Relation)である。

  • 直観的な表象と直接関係する概念は具体的な概念
  • 直観的な表象と間接的にしか関係し得ない概念は抽象的な概念

と分類することが出来る。

概念は表象の表象であるが、「複数の表象」の表象である場合、普遍性を持つと形容する。こうした概念は「範囲」を持つため、その範囲を集合論的に議論し、概念の特殊化を集合の包含と同一視することが出来る。

しかし、概念の形成する論理学に興味は無い。美学の研究により芸術家になったものは一人も無く、倫理学の研究により人が高貴になったためしも無いからだ。同様に、正しい推論をするためにも論理学は必要無い。

すべての詭弁は、概念が表象の表象であることにより説明できる。章末に、「旅行する」という概念を「善」であるとも「悪」であるとも結論付けるための詭弁を、ベン図の連鎖として図解してみた。

詭弁を逃れて確実な判断を行うためには何を基礎とすればよいかを§10で論じる。

§8 理性とは、概念を形成する機能である。

抽象的な表象の世界は、概念の世界である。

概念の世界には、「真理」と「誤謬」が存在する。真理は尊く、誤謬は毒である。それでも、真理がひとたび獲得されたなら、それは誤謬を打ち払う。

人間は理性による反省(Relflextion)により、概念の世界を捉える。それゆえに、

  • 現在のみでなく、過去や未来に生きる
  • 目先の直観的なことに捉われず計画的な判断を行う力を得、同時に苦悩も得る
    • 自殺を可能にするのは反省である

のである。

ゆえに、何かを欲するのは動物と人間で同じであっても、人間は

  • 計画を立て
  • 言葉を使い意図を伝播させ協力的に
  • 昔の経験を保存して

目的を達成する。

こうした多様な人間行動のすべてを厳密にひとつの簡単な機能に還元することが出来る。

すなわち、理性の持つ機能はただ一つ、

「概念の形成」

これである。

ショーペンハウアー哲学10の特徴

ここでは、単純なYES/NOの問いかけ10個を通して、
ショーペンハウアーの思想についてのおおまかなイメージを
伝えたいと思います。

1. 唯物論か?唯心論か?

→ ショーペンハウアーの哲学は唯心論です。

彼は唯物論が間違っていることの証明を試みています。
本質は「認識のパラドックス」を用いたものですが、
面白い論理なので、頭をひねってみるのも悪くないでしょう。

2. 極端か?中道か?

→ ショーペンハウアーの哲学は非常に極端です。

徹底した女性嫌いや厭世観にも彼の極端さが現れていると言えるでしょう。
反面、彼はこの素質によって、疑いようのない「真理」からの演繹により
誰よりも遠くまで到達し得たとも言えるでしょう。

ショーペンハウアーの極端さは、彼が非常に純粋な人であったことの
裏返しともとれます。

3. ポジティブか?ネガティブか?

→ 語る内容によってどちらとも取れます。

世界の構造にまつわる哲学としては、非常に分かりやすく
混沌とした世界の構造を照らし出す論調は、希望に満ち溢れたものです。

反面、人間社会の本質や、 人生の意義については、
非常にネガティブなものと言えると思います。

4. 秩序を好んだか、混沌を好んだか?

ショーペンハウアーは、秩序を好みました。

彼によれば、概念とは明瞭に抽象化され、理性により固定化された「表象の表象」でした。彼は誤謬を憎み、その源泉たる「明瞭でない一切のもの」を憎んだのでした。

 

§7 悟性と理性

世界は表象である。

表象が主観と客観に分裂するのであって、どちらかが先に存在するのではない。その証拠に、主観から客観を説明する観念論も、客観から主観を説明する各体系も失敗した。

表象は主観と客観に分かれ、客観は、直接的と間接的とに分かれる。直接的客観は、時間・空間・因果性からなる。間接的客観は概念の世界である。

因果性を認識する能力を悟性、概念を認識する能力を理性という。動物は悟性のみを持ち、人間は悟性と理性を併せ持つとショーペンハウアーは考えた。

(さらに…)

§5 唯物論と観念論の否定

因果性は「表象と表象」とを関連付ける4つの「根拠の原理」のひとつに過ぎない。
また、主観は主観自身を認識することは出来ないから、主観は表象ではない。

ゆえに表象ではない主観に対して因果性を適用する試みは間違いであり、

  • 観念論:主観が原因で客観が生じると考える
    も、
  • 唯物論:客観が原因で主観が生じると考える

も、ともに意味を成さない。
つまり、主観と客観を結ぶのは因果関係ではなく、認識なのである。

もし初めに私が仮定したように世界とは単なる表象の集合なのだとしたら、
人生とは表象の集合として相互に関連しあう長い夢であり、単なる表象だという意味で、夜見る夢(“短い夢”)と区別のつけられないものになってしまう。

§4 根拠の原理3 – 因果性と悟性

悟性とは、因果性を直観する力のことである。

因果性とは、「存在の原理」が形態化、すなわち表象されたものである。あらゆる物質は我々の身体に働きかけることにより表象されるから、因果性として認識される。
逆に、我々のあらゆる認識は、因果性に囚われて制限されてしまうという原理である。

物質をより絶対的な存在、「存在の原理」の表象化以上のものである「根源的存在」すなわち「物自体」であると考える根拠はない。

物質は時空間の中に表象されるが、異なる場所と時間において認識されることを「同時存在」と呼ぶ。「同時存在」の特別な例として「持続」という概念が表象され、「持続」に対する相対的な概念として「変化」が表象される。

§3 根拠の原理1・2 – 時間・空間
§4 根拠の原理3 – 因果性
§- 根拠の原理4 – 動機

§3 根拠の原理 – 時間と空間の原理

表象を直観的なものと抽象的なものに分けると、前者は「物自体の表象」と「根拠の原理」、後者は「概念」と呼ばれるものである。概念を形成する能力は理性と呼ばれる。人間をあらゆる動物から区別しているのは、理性の有無である。

経験が原因で直観的な表象が生じるのではなく、表象の認識そのものが、経験である。表象の認識とは、「物自体の表象」を、「根拠の原理」というフィルタを通して認識することである。根拠の原理とは、認識形式の法則 – つまり、主観の認識を制限する法則である。

この例は、まず時間と空間の原理である。これらは、あらゆる経験から独立して直観され、あらゆる経験に制限を加えているのである。

時間の原理は、認識が、継続する一瞬の形態をとるという原理である。これが、「時間という認識形式」である。
空間の原理は、物質の部分と部分が、位置的に継続するという原理である。これが、「空間と言う認識形式」である。

我々のあらゆる経験が、これらの形式でなければ認識不可能であると言う制限を加えられている。だから、「表象としての世界」は、

  • ヘラクレイトスには「流転」
  • プラトンには「イデアの像」
  • カントには「物自体の偶有性」
  • 古代インドでは「マーヤーのヴェール」

として、本当に存在してはいない仮象の世界として軽視されてきた。

§3 根拠の原理1・2 – 時間・空間
§4 根拠の原理3 – 因果性
§- 根拠の原理4 – 動機

§2 主観と「表象としての世界」

主観とは、すべてを認識するが、誰にも認識されないものである(主観は表象ではない)。主観が何一つ存在しないなら、世界は存在しないのと同じである。よって主観にとって、世界は「表象の集合」である。

ただし、世界は単なる表象の集合ではない。それら表象には相互に関係があり、その関係は4種類の「根拠の原理」によって支配されている。

  • 時間の原理
  • 空間の原理

    これら2つの原理が表象に「数多性」を与える。主観は「数多性」を持たない。

  • 因果性の原理

    人は表象同士を、原因と結果に当てはめて見てしまう。

  • 動機の原理

だから、世界とは、根拠の原理によって支配された表象の集合である。

§1 表象としての世界

世界は私に認識されるもの、つまり「表象」である。

我々は太陽を知っているようで知らず、知っているのは目に映った太陽の表象だけだし、大地を知っているようで知らず、知っているのは足を支える感覚の表象だけなのである。

その他に世界に「存在」するものがあるとしたら、それは「意志」である。実際、「世界は徹頭徹尾私の意志である」というのもまた真理である。ただし、この2つ目の真理については、1巻(§1~§16)ではあえて触れないことにする。1巻では、「世界は徹頭徹尾私の表象である」という側面から、世界の解明を試みる。

そしてこの2つの他には、いかなる実在も世界には存在しない。