§16-1 理性と悟性の二重生活 (第一巻最終章)

理性のみに従った行動は間違いである。

それは、明証をしりぞけ、証明にのみ頼る数学や、
抽象的でないものを情と言うカテゴリにくくってしまうことや、
抽象的な格率のみにしたがって杓子定規に生きる(カント批判)ことと同様に
間違いである。

人の特徴は、具体的なものと抽象的なものとの間で、二重生活を送る点にある。

時間の中で、内面的認識に対し理性をそなえていることは、
空間の中で、感覚的認識に対し眼をそなえていることにほとんど等しい。

しかし、理性的に行動することと有徳的(倫理的)に行動することの差について、
最後に指摘しておかなければならない。

§15-3 哲学とは直観(“物自体”)の抽象化である

科学は必ず、それ以上その時点ではなぜを追求できない「隠れた特性」を仮定して、そこで立ち止まるものである。
その意味では、もろもろの現象の関係のみが科学にとっての問題である。

哲学はいかなるものも既知として前提とすることは無く、すべてのものが未知であり、問題である。
そのため、哲学はもろもろの現象、つまり「物自体」を問題にする。

したがって、科学が限界として設定するところから哲学が始まる。
(概念間の根拠の原理である)証明は哲学の基礎たりえず、明証がそれに取って代わる。

したがって、哲学はこの世界が「どこから来て」「何のために存在するか」という関係性を明らかにすることはしない。
ただ、この世界が「何であるか」を明らかにするものである。

(さらに…)

§14 科学

科学とは、
体系的な知識である。

それは、AからBを導くと言う論理の上下関係をもつ知識の集合だが、
プラトンのイデアのようにひとつの「普遍」が
全ての直観の上にあるというのに似た単層構造ではなく、論理による階層構造である。

公理からあらゆる定理を導く構造になっているが、
数ある知識の中からどれを公理とするかは自明ではない。
しかし、知識の中でも「明証」は直観的に理解できる。

明証的なものを、論理により証明しようとするのは、
松葉杖で歩くために脚を切り落とすような本末転倒の行為である。

あらゆる定理のなかで公理とすべきものを抽出するのは「判断力」である。
科学者は判断力によって最も明瞭な公理系を選ぶべきであり、
科学は明証の上に立つべきである。

§13 笑い

抽象的な知は、むしろ直感的な知には厳密には一致しない。(微細な変化形態を捉えることは出来ない。)

笑いをこの観点から説明しよう。

ある種の笑いは、あるものについての「概念」と、「直観的な表象」のギャップが知覚されることにより生じる。
特に、日常的に隠されていたギャップがにわかに強調された際に、笑いは生じやすい。
この結果、笑いは

  • 逆説的である
  • 思いがけないものである

といった特徴をもつ。

「概念」を理性により杓子定規に適用して愚行を行う場合が「ペダントリー」である。
ペダントリーの徒が硬直した格率を人生のあらゆる場面で適用するたび、
いつもどこか足りないところが出てきて、野暮で、愚かで、役に立たないことになる。
ペダントリーの徒は芸術に向いていない。
「道徳的」なペダントリーは、もっと始末におえないものである。(カントや『政治学者』に対する批判)

二つの異なる「直観」を恣意的にひとつの「概念」にくくりいれ、
ギャップのおかしさを楽しむものが「機知」である。
わざと二重の意味に受け取られる言葉を使って猥談を行うことも、「機知」の一種である。

「機知」は、常に言葉によって表現される。
これは、愚行が行為として表現されるのと対照的である。

(さらに…)

§12 「描写性」と「再利用性」のトレードオフ

なぜ、芸術は科学によって成されえないのか。

悟性による認識すなわち直観を理性により抽象化したものが概念である。概念の再利用性を極致まで高めたものが科学である。

しかし、抽象化の代償として、概念は直観的なものの微細な変化形態を捉えることが出来ないのである。

そのため、悟性と理性の有利な場面は以下のように異なってしまうのである。

§12における場面の分類:

§11 情(Gef:uhl)

知と対立するものは情である。

情は理性によって形成された概念ではないものであり、直観的な表象である。

学生が他のすべての人を「俗物」と呼ぶがごときは、「俗物」という渾然と交じり合ったものを直観しているに過ぎず、「情」である。

すなわち、明瞭な抽象的概念ではないあらゆる意識の変化形態が情である。

§10 知

「知る」とは、悟性が直観した表象を、理性の機能により概念のなかに固定することである。

「知」と「科学」は人間の長所だが、その確実性は、概念が再現可能であることによる。

だから「知る」とは、ある概念を認識し、自由自在に再現しうるまでに精神の力のうちにおさめることなのだ。

これは人間のみが可能なことである。意識がある(=表象を精神のなかで再現することが出来る)動物も存在するし、記憶力に長けた(=概念を記憶できる)動物も存在するが、概念を形成する理性の力が無いので、彼らは本当の意味で「知る」ことは出来ない。

理性の概念形成以外の能力は、概念間の論理操作を行う能力のみである。

§9 詭弁

概念は、表象の表象である。

表象が直観されるものであるのに対し、概念、表象の表象は、決して直観されることは無い。

概念の本質は、関係(Relation)である。

  • 直観的な表象と直接関係する概念は具体的な概念
  • 直観的な表象と間接的にしか関係し得ない概念は抽象的な概念

と分類することが出来る。

概念は表象の表象であるが、「複数の表象」の表象である場合、普遍性を持つと形容する。こうした概念は「範囲」を持つため、その範囲を集合論的に議論し、概念の特殊化を集合の包含と同一視することが出来る。

しかし、概念の形成する論理学に興味は無い。美学の研究により芸術家になったものは一人も無く、倫理学の研究により人が高貴になったためしも無いからだ。同様に、正しい推論をするためにも論理学は必要無い。

すべての詭弁は、概念が表象の表象であることにより説明できる。章末に、「旅行する」という概念を「善」であるとも「悪」であるとも結論付けるための詭弁を、ベン図の連鎖として図解してみた。

詭弁を逃れて確実な判断を行うためには何を基礎とすればよいかを§10で論じる。