§4 読書をして良い場合とは

ただ思索の湧出が途絶えた場合だけが、読書をして良い場合である。自ら思索を放棄して読書に向かう者は、植物図鑑を眺めるために、広々とした自然から逃亡する愚か者のようだ。

自分で考えたと思っていた同じ結論が、本にすでに書いてあったらどうする?という反論もあるだろう。しかし、本に書いてあることを我々が真に理解することは出来ない。自分の思索で獲得した真理の価値は、書中の真理の価値に100倍も勝るのだ。その価値は、

  • 自分の思想との有機的結合
  • 一貫性。真理の特徴に自分の特徴が染み付いていること
  • 自分が決して忘れないこと

である。

例えば、思索するものは、他人の権威ある説を自説の検証に使うに過ぎない。ところが、凡人は、他人の権威ある説を組み合わせて体系を作るのだ。

自分で考え抜いた真理は、自分の精神によって身篭られ、産み落とされ、一個の生命を得る。他人の寄せ集めで出来た継ぎはぎの真理は、決して生命を得ることはない。

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