ショーペンハウアーの哲学

§1-3 内面の貧困

人のありよう(1)が重要だとはいえ、時の力には、肉体的な美点も精神的な美点も、しだいに征服される。この点では、あとの二つの見出しに属する財宝のほうが、時の力によって直接奪われないだけに、第一の見出しに属する財宝よりもまさっている。さらにそれらは獲得可能なものであって、誰でもそれを手に入れる見込みだけはある。そのため、人間は精神的な教養を積むよりも富を積むほうに千万倍の努力を献げている。

本当は富の獲得に努力するよりも、健康の維持と能力の陶冶とを目標に努力したほうが賢明である。しかも実は有り余る富は、われわれの幸福にはほとんど何の寄与するところもない。というのは、富は現実の自然な欲望を満足させるだけで、むしろ大きな財産の維持のために不可避的に生ずる数々の心労のために、かえって幸福感が害われるくらいだからである。多くの人間は富を殖やすための手段の世界を自己の視界とし、この狭い視界からそとに出れば、何一つ知らない。精神はからっぼで、最高級の持続的な享楽、すなわち精神的享楽は、高嶺の花である。金持ちに不幸な人が多いのはそのためである。

暇はかからないで金のかかる刹那的な享楽をむさぼって、最高級の享楽のうめ合せをしようとしても、その効果は知れたものだ。内面の空虚と精神の貧困が、彼らを社交界に走らせるが、この社交界がまた彼らと同様の人間の集まりだ。はじめは各種の遊興に娯楽や慰安を求めるが、あげくの果てには淫蕩にこれを求めるようになる。金持ちに生れてきた長男殿が莫大な遺産をあっという間に使いさってしまうことがよくあるが、こうした手のつけようもない濫費の原因は、今言ったような精神の貧困と空虚とから起きる退屈以外の何ものでもない。

天罰覿面、とどのつまりは内面の貧困が外面の貧困までも引き起したわけである。