思索の意志があっても、気分が乗らなければ思索は出来ないのが思索の難しい点である。さらに、気分が乗っても、毎回異なる角度から同じ問題にイチから取り組むことになってしまう。
しかし、その繰り返しによって問題が分割されたり、以前には気づかなかった点に気がついたりして、決意が熟成するのである。思索は、このようなゆるやかなプロセスである。
だから、思索の湧出が途絶えたときには読書をしても良いが、決して、思索のタイミングが来たときにそれを逃してはならない。思想家の態度は真剣である。もし多読に慣れてしまえば、思索すべき事柄を忘却し、他人の踏み固めた道を行く安易さに慣れきってしまうだろう。多読は慎むべきである。