§5 唯物論と観念論の否定

因果性は「表象と表象」とを関連付ける4つの「根拠の原理」のひとつに過ぎない。
また、主観は主観自身を認識することは出来ないから、主観は表象ではない。

ゆえに表象ではない主観に対して因果性を適用する試みは間違いであり、

  • 観念論:主観が原因で客観が生じると考える
    も、
  • 唯物論:客観が原因で主観が生じると考える

も、ともに意味を成さない。
つまり、主観と客観を結ぶのは因果関係ではなく、認識なのである。

もし初めに私が仮定したように世界とは単なる表象の集合なのだとしたら、
人生とは表象の集合として相互に関連しあう長い夢であり、単なる表象だという意味で、夜見る夢(“短い夢”)と区別のつけられないものになってしまう。

§4 根拠の原理3 – 因果性と悟性

悟性とは、因果性を直観する力のことである。

因果性とは、「存在の原理」が形態化、すなわち表象されたものである。あらゆる物質は我々の身体に働きかけることにより表象されるから、因果性として認識される。
逆に、我々のあらゆる認識は、因果性に囚われて制限されてしまうという原理である。

物質をより絶対的な存在、「存在の原理」の表象化以上のものである「根源的存在」すなわち「物自体」であると考える根拠はない。

物質は時空間の中に表象されるが、異なる場所と時間において認識されることを「同時存在」と呼ぶ。「同時存在」の特別な例として「持続」という概念が表象され、「持続」に対する相対的な概念として「変化」が表象される。

§3 根拠の原理1・2 – 時間・空間
§4 根拠の原理3 – 因果性
§- 根拠の原理4 – 動機

§3 根拠の原理 – 時間と空間の原理

表象を直観的なものと抽象的なものに分けると、前者は「物自体の表象」と「根拠の原理」、後者は「概念」と呼ばれるものである。概念を形成する能力は理性と呼ばれる。人間をあらゆる動物から区別しているのは、理性の有無である。

経験が原因で直観的な表象が生じるのではなく、表象の認識そのものが、経験である。表象の認識とは、「物自体の表象」を、「根拠の原理」というフィルタを通して認識することである。根拠の原理とは、認識形式の法則 – つまり、主観の認識を制限する法則である。

この例は、まず時間と空間の原理である。これらは、あらゆる経験から独立して直観され、あらゆる経験に制限を加えているのである。

時間の原理は、認識が、継続する一瞬の形態をとるという原理である。これが、「時間という認識形式」である。
空間の原理は、物質の部分と部分が、位置的に継続するという原理である。これが、「空間と言う認識形式」である。

我々のあらゆる経験が、これらの形式でなければ認識不可能であると言う制限を加えられている。だから、「表象としての世界」は、

  • ヘラクレイトスには「流転」
  • プラトンには「イデアの像」
  • カントには「物自体の偶有性」
  • 古代インドでは「マーヤーのヴェール」

として、本当に存在してはいない仮象の世界として軽視されてきた。

§3 根拠の原理1・2 – 時間・空間
§4 根拠の原理3 – 因果性
§- 根拠の原理4 – 動機

§2 主観と「表象としての世界」

主観とは、すべてを認識するが、誰にも認識されないものである(主観は表象ではない)。主観が何一つ存在しないなら、世界は存在しないのと同じである。よって主観にとって、世界は「表象の集合」である。

ただし、世界は単なる表象の集合ではない。それら表象には相互に関係があり、その関係は4種類の「根拠の原理」によって支配されている。

  • 時間の原理
  • 空間の原理

    これら2つの原理が表象に「数多性」を与える。主観は「数多性」を持たない。

  • 因果性の原理

    人は表象同士を、原因と結果に当てはめて見てしまう。

  • 動機の原理

だから、世界とは、根拠の原理によって支配された表象の集合である。

§1 表象としての世界

世界は私に認識されるもの、つまり「表象」である。

我々は太陽を知っているようで知らず、知っているのは目に映った太陽の表象だけだし、大地を知っているようで知らず、知っているのは足を支える感覚の表象だけなのである。

その他に世界に「存在」するものがあるとしたら、それは「意志」である。実際、「世界は徹頭徹尾私の意志である」というのもまた真理である。ただし、この2つ目の真理については、1巻(§1~§16)ではあえて触れないことにする。1巻では、「世界は徹頭徹尾私の表象である」という側面から、世界の解明を試みる。

そしてこの2つの他には、いかなる実在も世界には存在しない。