§21 盲目的意志

自分自身という現象以外の表象に、意志の考え方を当てはめたらどうなるだろうか。

自然界に盲目的に働くあらゆる力 – 植物の成長力、結晶の形成力、磁力、物質の離合集散を起こす親和力、そして万有引力 –
これら各現象はわれわれに認識される意味で表象であるが、その現象の奥に「物自体」(カント)が存在したと仮定してみよう。
するとそれこそが意志であり、自然界のあらゆる力は意志の客観化であることになる。
すべての表象、すべての客観は意志の現象であり、客体性である。

意志は盲目的に作用しているすべての自然力のうちに現象する。

§20 意志は無根拠である

意志は意欲を引き起こすが、それは随意運動ではない。
随意運動は動機によって引き起こされるが、動機が規定しているのは、特定の場所で、特定の時間に、特定の内容を意欲させるということで、一般的な意欲を引き起こすことは出来ない。

しかし、「生きたい」という意欲は、場所にも時間にもよらず引き起こされる。これは意志が引き起こす意欲である。
われわれがなぜ「生きたい」と一般的に意欲するのかは、動機から解明することは出来ない。
このように、一般的な意欲は、動機に支配されていないのである。

同様に、身体の組成・成長・維持について生理学的に説明し、身体の運動を有機体における原因に還元しても、身体の組成・成長・維持がなぜ存在するのかは説明できない。
なぜ身体の組成・成長・維持が一般的に引き起こされるのか。
有機体における自然法則は客観化された意志、すなわち意志の現象だからである。

この傍証は、身体の各部の合目的性である。
例えば歯・喉・腸は客観化された飢餓であり、生殖器は客観化された性衝動であり、手・脚は様々な目的に対応し、個人の体系は客観化された個人の性格である。

§19 自然界のあらゆる客観から表象性を取り去り、それでもなお残るもの

われわれにとっての自然界のあらゆる客観には、表象としての意味しか無いのであろうか。
もし、自然界のあらゆる客観から表象性を取り去り、それでもなお残るものがあるとすれば、それはわれわれが自らの身体について「意志」と呼ぶものと同一であるに違いない。

ここで、意志そのものと意志の現象を区別しておかなければいけない。

例えば、石を地面に落下させる力という客観から、表象性を取り去り残るものは意志そのものである。
しかし、「石が運動するのも、石が外界を認識し、動機を生じそれに従って起きるのだ」というのは馬鹿げた考えである。
認識や動機は意志の現象に属すものであり、意志そのものはもっと根源的な別のものなのだ。

ケプラーは第2法則(角運動量保存の法則)

πab = P(r^2)(dθ/dt)

a:短半径 b:長半径 P:周期 r:中心からの距離 dθ/dt:角速度

を発見した際に、このような美しい法則が成り立つからには、惑星に意識があり認識や動機があるからに違いないと推論したが、馬鹿げた考えである。

§18 最高の意味での奇蹟(意志と身体の合致)

悟性が世界を直観できるのは、身体の受ける刺激による。

しかしわれわれが身体を直観する場合は、他の表象と同じではない。
われわれは身体の動きを、他の客観と同様に認識しているだけではなく、
意志を通して主観的にも認識しているからである。

意志の働きと身体の活動は、原因と結果ではない。これらは同一のものである。

身体の動きを随意運動とか不随意運動とかいうが、
意志を通して主観的に認識しているものを、
客観的に認識したらこのような表現になるに過ぎない。
いわば、身体の活動は客観化された意志である。

このように、身体の活動は直接の客観である(§も参照)。
意志の働きと身体の活動は同一なので、意志を客観化したものも直接の客観である。
ゆえに私は、身体を、意志の客体性と名づける。

意志が興奮すれば、身体の機構はゆさぶられ、乱される。
意志の働きと身体の活動は、このように表裏一体である。

この事実は、もっとも直接的な認識、最高の意味での奇蹟であり、
相対的な真理ではなく、それゆえに演繹も証明も出来ない。
また分類も出来ず、論理的な真理/経験的な真理/先験的な真理/高次論理的な真理のいずれにも該当しない。
われわれはこの事実から出発して、「知(Wissen)」に高めていく。

§17 既存の学問は全部ダメだ。

数学も、哲学も、自然科学も全てダメだ。

既存の学問は全て、原因論的な説明に過ぎない。2つのものの片方を原因、片方を結果としてみても、ひとつの相対的な真理が明らかにされるに過ぎない。
これでは、世界の本質、つまり世界が単なる表象ではないという一面に迫ることは出来ない。私は問う:

「この世界には表象のほかには何も無いのか?
われわれの傍を通り過ぎる蜃気楼なのか?そんなはずは無い。
そうでないとしたら、その本質は何であり、
どのように表象と根本的に異なっているのか?」

既存の学問は全て、城の周りをぐるぐる回って入り口を探しても見つからないので、さしあたり正面のスケッチでもしておくというような人に似ている。

しかし、以下に述べるように、私は世界の本質を解明する、新たな思想を生み出したのだ。