§36-1 芸術と天才

歴史、自然学、数学といった科学の扱う主題はどこまでも現象であり、現象の諸関係にすぎない。(「根拠の原理」)そのため、科学はイデアの認識の助けにはならなかった

イデアの認識の方法とは、科学ではなく芸術である。

芸術は、その対象を世の中の他のものから切り離して鑑賞する。この純粋な観照を通じて、永遠のイデア、世界のいっさいの現象の中の本質的なものを把握出来る。そして芸術のただ一つの目標は、この認識の伝達ということに外ならない。

科学は目標に達するたびごとにくりかえし先へ進むよう指示され、ついに究極の目標(「この世界はなんであるのか」)には達しないし完全な満足を得ることもできない。これに反し、芸術は、随所で目標に達している

しかし、純粋な観照が可能となるためには、ありあまる認識能力が必要である。これはすなわち自己の関心、自己の意欲、自己の目的をすっかり無視して、つまり自己の一身をしばしの間まったく放棄し、それによって純粋に認識する主観、明晰な世界の眼となって残る能力のことである。自由になったこのもて余すほどの認識力が、そのとき意志を離れた主観となり、世界の本質をうつす明澄な鏡となる。

それではありあまる認識能力を持つ人とはどのような人であろうか?それは天才であり、以下に集約される。

  • 活発さ、落ち着きのなさ
  • 想像力の強力さ
  • 実生活上の弱点
  • 眼光の鋭さ
  • インスピレーション
  • 数学への嫌悪(怜悧さの欠如)
  • 狂気

本章では天才の特徴を分析する。

§33 認識の意志への奉仕と解放

認識は、今や多様な欲望をいだいている人間存在を維持する手段である。

普通の人間の場合、認識は意志に奉仕している。

科学については、特にこの事実が顕著に表れている。科学は法則を発見することで概念を一般化し、認識を容易にするためのものである。

特に、全ての科学的な事象は時間の中の現象であるから、真の実在を扱えない。そこで持続と呼ばれているものは、永遠ではないということに過ぎない。

「時間とは永遠の動く彫像である」(プラトン)

さて、人間は他の動物とは違って、頭の部分が身体から完全に分離している。このことが象徴的に示しているように、意志への奉仕から認識を解き放つことが可能である。

§32 カントとプラトンの相違点

カントの物自体は表象ではない。しかし、 プラトンのイデア 原文検索 は表象である。このただ一点がカントとプラトンの理論の相違点である。

では、プラトンのイデアは他の表象とどう違うのだろうか?

根拠の原理に適合して現われる個々の事物は、意志の客観化であるが、これらは根拠の原理に従い、数多性を持ち生成・消滅するので、意志の間接的な客体性にすぎない。これに反して、イデアは数多性を持たず、生成・消滅も行わず、ただ存在する。つまり、直接的な客体性は、イデアのみなのである。

この、主観により認識されうる点を除いては、イデアは物自体と一致する。イデアは、最も適切な意志の客体性であるともいえる。

我々の認識は身体への刺激(知覚)から始まる。しかし、身体も個体性・数多性を持ち、生成消滅する間接的な客体性に過ぎない。だから経験も、間接的な客体性に限られるのである。身体は意志が客観化され意欲となったもの(“胃は客観された飢餓である”)であるから、この意味で認識は意志に奉仕している

認識が意志への奉仕から解放されない限り、イデアを認識することは出来ない。

しかし、一部の人間のみには、その解放とイデアの認識が許されている。

§31 カントとプラトンの一致点

意志はカントの理論における”物自体”であり、プラトンのイデアは段階的な”意志の直接の客体性”である。

カントの理論の要点はこうである。

「時間、空間、因果性。これらとこれらが可能にする全ての数多性と生成・消滅は、現象に属し、”物自体”(真の実在)ではない。
ゆえに、これらからもたらされる全ての経験も真の実在ではない。
われわれが自我だと思っているものも、経験を通した認識であるから、われわれが自我だと思っているものでさえも真の実在ではない。」

プラトンの理論の要点はこうである。

「われわれが知覚する様々な事物は、真の実在ではない。
それらは絶えず生成しているが、存在してはいない、幻燈に移された影のようなものである。
生成も消滅もせず、真に存在しているものは、影の原像、”イデア”のみである。」

カントもプラトンも、全ての表象が非存在であることを主張している。

ここに例えば一匹の動物がいた場合、プラトンは「動物のイデアの影」であると言い、カントは「動物の本体を認識するには経験ではなく超越的認識が必要」と言うだろう。

しかし、プラトンのイデアとカントの物自体には違いがある。