崇高感とは、「意識的に」認識を「意志の利害関心から解放」することによって、「人間(個体)を超越」する高揚感である。
1. 崇高と美の違い
崇高と美はともに人を純粋認識に至らせるものであるが、以下のような決定的な違いがある。
まず美の例として、自然、とくに植物の美しさには、人を純粋認識に引き込む力がある。この力は、意志と敵対関係にある。美は、意志と何ら闘うことをしないで、主導権を握ってしまう。
崇高さは、逆に、意志の客観化つまり個体としての人間が、自然に対して圧倒的に不利である状況から始まる。この不利さから、人間が意識的かつ無理強いに自らの認識をもぎはなした結果(現実逃避)、純粋認識の状態に至る場合がある。このときに崇高感が生じる。これは美と異なり、自然が我々のほうに歩み寄ってこない場合である。 しかし、美と崇高は、純粋認識には同じものであり、美から崇高への移り変わりが起こりえる。
2. 崇高感の分類
力学的崇高は、暴力的な壮絶な力によって意志が脅かされる場合の崇高である。 自分の声も聞こえないほどの激しい大瀑布。激しい嵐、一面の黒い雷雲、折り重なって視界を阻む岩肌剥き出しの懸崖絶壁。滔々と泡立つ激流、荒涼たる風景。峡谷を吹き抜ける風の慟哭。こうした状況では意志は完全な敗北を悟るが、逆に認識主観は純粋に冷静にこれらのことを観賞するであろう。この境地にあっては、認識主観は完全に個体性を超越している。
数学的崇高は、空間や時間の大きさによって意志が脅かされる場合の崇高である。 それは、大瀑布や非常に高い山々、砂漠、星空などの雄大さに押しつぶされたり、天井の高い大聖堂、エジプトのピラミッド、太古の巨大な廃墟で荘厳さを感じたり、宇宙の永劫の時間に想いを馳せる時に、自らの存在がとてもちっぽけなものに思えるあの感覚である。このような壮大な存在に対し、意志は敗北を認めざるを得ない。しかし、認識主観は、意志を敗北させた雄大な物を、意志から離れて鑑賞することができる。これが、自らの意志の超克である。
3. 光と崇高さ
厳冬のさなか、自然界が氷結している頃、低くさす陽の光が石の塊りに当たってはね返されるさまをわれわれは目撃するとしよう。 こうした場面では陽の光は射すには射すけれど、熱を与えることはない。光が認識であるとすれば、熱は生命の源、意志である。したがって陽の光は純粋認識形式にとってのみ都合がよい状態で、意志にとっては不都合な状態であるといえる。
石の塊りに陽の光が及ぼすこの美しい作用をじっと眺めていると、われわれはすべての美しいものを眺めたときと同じように、純粋認識の状態へと移し変えられるのである。これが美から崇高への移行である。