§55-1 人間の自由意志の否定

現象界、すなわち表象としての世界は根拠の原理に支配された、必然の世界である。だから無機物や植物や動物の行動は常に必然的で、自由はない。人間行動も、動機に規定される面では自由は無い。

ただ、人間の認識は世界の完全な鏡であるから、意志による自由の余地が生まれる。

我々はカントに倣って、性格の自由な面すなわち意志を永遠不変な叡智的性格と呼び、性格の根拠の原理に支配された面を経験的性格と呼ぶ。

正確には、動機がある場合、意志が、つまり叡智的性格が決断し、行動するのだが、それを後から知性が認識し表象となったものが経験的性格である。

だから、地面に立てた棒が右か左に倒れようとしている時、重力がそれを決定した結果が経験的性格であり、棒を地面に立てると、右にも左のどちらにも倒れうる可能性が生じるという事実が叡智的性格である。

しかし、右にも左にも倒れる可能性が、自由があるように見えるのは見かけだけで、本当は平衡を失った瞬間に結果は決まっているのである。

叡智的性格は意志であり、時間の外にあるため、永遠に不変である。だから、知性と意志の闘争の結果ではあるといえ、その結果は結局必然に支配されている。

つまり、人間に無差別な意思決定が可能であるという主張は間違っている。デカルトやスピノザの主張がこれにあたる。

特に、人間はこんな人に成りたい、あんな人に成りたいと決心して変わることは不可能である。意志は自由意志ではなく、生の衝動である。人間は生の衝動であり、その性格は高次のイデアであり、自分自身を経験的性格として追認していくことしか出来ない。

§55-3 習得された性格

習得された性格を得るとは、自分を理解することである。経験的性格と叡智的性格は不変だが、自分についての明晰な理解を概念の形で結晶させることには二つの大事な利点がある。

ひとつは、何かを成し遂げることである。歳の市に行った子供のように、興味あるもの全てに引き寄せられてふらふらしていれば、何も成し遂げることは出来ない。自分の素養を知ることで初めて、人は他の全てを諦め、集中出来るのである。

ふたつめは、自分自身に対する不満から解放されることである。 それは、自分自身をわきまえず、誤った自信や思い上がり、欠点を変更可能だという不毛な希望を持つことから生まれるからである。

§54-1 死の恐怖

意志は盲目的な生の衝動であり、無機物や植物の栄養作用、生殖として現象している。

個体は現れては消えて行くが、この生の衝動は不滅であり、いかなる時間をも知らない。意志にとって個体の死はどうでも良いことで、種族の保存だけが関心事である。個体の誕生と死は、種族にとっては毎日の栄養摂取と排泄に過ぎない。

こう考えると、自分や友人の死も慰められるし、自分の死体をミイラにして保存するなんて、排泄物を保存するくらい滑稽なことに思われて来るだろう。

意志は個体性を持たないことに加え、現在という時間形式のみを持つ。過去や未来は、生成や消滅を繰り返す世界のみにある。

だから、現在というものに満足し続ける人がいたとしたら、彼は自分の生を無限とみなし、死の恐怖を覚えないであろう。逆に、生の苦悩という現在に耐えられない人がいたとしたら、自殺をしても、苦しみを逃れられないだろう。

§53 行為の哲学

最終章は行為の哲学である。ただし、我々のものを含め、行為の哲学は実践的になりえないことは注意するべきである。その人の行動を決めるのは概念ではなくて、その人の本質である。丁度、概念が芸術に寄与することが無いのと同じではないか?哲学で有徳者を作ろうとするのは、美学で芸術家を作ろうとするのと同様に不毛である。

また、私は総じてこのようにすべし、と言うことも言わない。そう言うことは子供に言うべきことで、自由意志をもつ成人に言うことではないからである。

行為という人間の本質で説明されるべきことを、歴史のような個別的なもので説明する態度も間違っている。

我々の目的は意志の哲学により行為を解釈説明することである。我々は、自己啓発や宇宙進化論には興味が無いのである。

ショーペンハウアー哲学の矛盾1

ショーペンハウアー哲学が矛盾しているということが、多くの哲学者から指摘されてきた。しかし、ほとんどの指摘はショーペンハウアー哲学への無理解から来ているといえる。

今回は、インド哲学のヴィヴェーカーナンダによる、以下の批判を例にとってみよう。

椅子を動かすのと同一の力が、心臓や肺臓やその他のものを動かしているが、それらは意志が原因ではない。力は、それが意識の段階に上るときにはじめて意志となるのだから、その前に意志と呼ぶのは間違いである。

ショーペンハウアーにおいて、意志は力を包括する概念であると定義されている。要は定義の問題なのである。そうした思考ゲームにおいて、意志が意識の段階に上がるかどうかは何の関係もない。単に二人の間で意志という言葉の定義が違うだけであり、お互いに否定しあう必要はない。

ショーペンハウアーを理解するには、ショーペンハウアーの定義に(無理に)従わないと正しく理解できないのが、ショーペンハウアーが誤解される原因の一つなのだろう。

§52-1 音楽

音楽は世界に存在するイデアの再現ではない。音楽は人間の最奥に語りかける普遍的な言語である。音楽は世界を再現しているのだが、この直接的理解を抽象的に把握したものはいない。

私は長らく音楽にはまってきたが、ひとつの解明に辿り着いた。それは音楽がイデアの模写ではなく、世界の模写、すなわち意志の模写であるということである。

私はこのことを証明することは出来ない。この章は、しばしば音楽に耳を傾けながら聞いてもらいたい。

和声について

根音バスは、星の質量、すなわち無機的な自然界である。軽快で、消えて行くのも早い倍音は、星から産まれた全物質、個別的な現象界である。それらの中間にある充填声部は、イデアの系列に対応する。

和声進行が合法則的であるのは、これらのイデアに自由意志が無いからである。

旋律について

旋律は自由意志をもつ、人間界に対応する。音楽は感情と情熱の言語である。

旋律を編み出すのは天才の業である。これはインスピレーション、神の息吹と呼ばれる。この過程に概念は存在しない。旋律は、願望から満足へ、また願望へと振り子運動をする、人間の生活そのものである。(ドミナントモーション)

短調と長調について

リズムとの組み合わせにより、短調と長調は我々の感情を支配する。

オペラについて

音楽に肉と骨のころもを被せようとしてオペラは生まれた。もし音楽があまりに歌詞に引きずられると、音楽は自分のものでも無い言葉でおしゃべりをしようとあくせく骨折ることになる。ロッシーニのみがこういう間違いを犯さないことを綺麗に守れた。

冒頭で音楽は世界を模写していると言ったが、音楽と自然界とは、意志の異なった二つの表現なのである。だから、交響曲に感銘して浸り切っている人には、あたかも世界の全ての出来事が周りを通り過ぎてゆくように感じるが、正気に帰ってみれば、交響曲と今見えた事物との間になんの類似性も見出せないだろう。両者は一つの意志を、違う角度から眺めたものだからである。

概念と音楽は、個別の現象に対して普遍性を持つという点で一致しているが、概念が空虚な殻であるのに対して、音楽は現象のいっさいの形式に先立ちその奥にある核心である。概念は事物以後の普遍、音楽は事物以前の普遍、現実は事物の中の普遍である。

音楽は親しみの持てる楽園、永遠に近い天国として我々のそばを通り過ぎてゆく。音楽はいくら反復しても心地よい。文学であれば、反復記号は煩わしいだけだろう。

音楽は悟性を必要としない。音楽は結果から原因へさかのぼる必要がないからである。

こうして音楽を哲学で解明することが出来たなら、それは世界を哲学で解明出来たことと同じである。

§51-3 悲劇

詩芸術の最高峰は、悲劇である。

悲劇は意志の自己自身に対する抗争と、故意と思わざるを得ないような意地悪な偶然と間違いから成っている。

悲劇の中では、極めて高貴な人々が、長期にわたる闘いと苦難の挙句、それまでの目的も人生のありとあらゆる享楽をも永久に放棄してしまう。ファウストのグレートヒェンも、ハムレットのホレーショもである。こうして彼等は原罪を償う。

悲劇には3タイプある。一つは極端な悪人が不幸を巻き起こすもの。次に盲目的な運命がもたらす、オイディプス王のような不幸。最後に、人間関係の引き起こす不幸で、立場上ずるずると、最悪の状況にはまって行くものである。

人間関係が巻き起こす不幸は、誰にも起こり得るし、逃れようもない、最大の不幸である。そして上演も最も難しい。この最高傑作は、ゲーテの「クラヴィーゴ」である。

注:この章に影響を受け、ニーチェという哲学者が誕生した。→悲劇の誕生

§51-2 抒情詩と物語詩

大きく分けて二つの詩が、イデアの描写に長けている。

片方は抒情詩で、刹那の気分を捉えてそれを歌にしたもの。もう片方は物語詩である。

真の抒情詩を読めば、何百万人もの似た境遇に置かれてきた人々の感じてきた、同じ感情をいつでも呼び起こすことができる。

抒情詩の本質は、意欲と純粋認識との錯綜である。抒情詩では、最高の奇跡、つまり認識の主体と意欲の主体との一致が再現される。

優れた叙事詩は、特異な性格の人物と、得意な状況の組み合わせである。これは、素材こそ違うが、建築術のように、素材のイデアを際立たせる詩である。

抒情詩は青年が作り、叙事詩は老人が作るものである。

§51-1 詩

詩は化学のようなもので、概念を組み合わせると、そこにイデアが沈殿して来るかのようである。

詩は時間芸術で、リズムと押韻という武器を使うことで、あらゆる判断に先んじて我々の盲目的感情に訴えかける。

詩はあらゆる段階のイデアを描写できる。しかし、特に人間の描写に向いているのは、時間の経過とともに行動や性格を描写可能だからで、他の造形芸術は詩と渡り合うことは出来ない。

詩は、歴史書よりも、歴史の描写において真実性がある。歴史家は、後世への影響を判断する必要性に迫られているので、根拠の原理に縛られ、イデアを認識出来ない。しかし、人間のイデアの描写こそ、歴史の伝達に必要なものである。古代の歴史家は実際、優れた詩人だった。

自伝は歴史書よりもましだが、詩には及ばない。

§50 寓意

寓意は概念を基に絵画に埋め込まれた仕掛けで、純粋に芸術を鑑賞できない人々の歓心を買うためのものである。(ただし、ヴィンケルマンの考えでは寓意こそが芸術の最高の目的である。ショーペンハウアーの哲学とは当然相容れない。)

寓意の中でも象徴は、芸術に全く寄与しない。例えば、十字架はキリストの象徴である。象徴は概念であり、芸術に寄与しない

寓意が許される唯一の芸術は、詩である。詩は概念を用いて鑑賞者を直観の世界に誘う。隠喩、直喩、例え話、寓意が詩の仕組みである。文学における優れた寓意はいくらでも例を挙げることが出来る。