§69 自殺について

自殺は意志の否定ではなく、むしろ肯定である。

自殺する者は、自分の苦悩から逃れようとしているのだから、個体化の原理に囚われたままである。

苦悩から逃れるための自殺は、苦悩の大きさが、意欲の大きさから起こっていることを意味する。彼は、他に意志を肯定する手段を失ってしまったので、自殺を選ぶのである。

いかなる倫理学も、自殺を思いとどまらせることは出来ない。自殺者には、意志の否定に気付くための認識の力が欠けているからである。

自殺では、意志そのものを殺すことは出来ない。認識のみが、種族を廃絶させることができる。

§68-3 聖者たち

聖者たちの生活は、禁欲に始まる。彼らにとって禁欲と貧困は、修行のためにそうするのではなく、積極的に求められる目的である。意志の否定こそが目的であるのだ。

彼らが死に至るとき、それはあらかじめ準備されていたかのようである。すでに意志は鎮静され、その残り火が消えるかのように彼らは死んでいった。私は彼らの人生が羨ましくてしょうがない。

キリスト教の信徒も、インドの信徒も、ラマ教の信徒も、仏教徒も、神話は違えど、その目的はこのようにひとつであった。

彼らの伝記を読むことは、人生に希望を与えてくれるであろう。

  • キリスト教
    聖霊徒、経験主義派、静寂主義派、篤信熱狂派の人々の伝記
    『聖徒伝』『再生者たちの事跡』『祝福されたシュトゥルミの生涯』『聖フランチェスコ伝(聖ボナヴェントゥラ編)』
  • インド
    インドの聖者、贖罪者、沙門、捨離者の生活を描いた文学作品
  • 仏教
    『ゴータマ・ブッダの創始せる托鉢求道者団の報告』
  • 現代
    『ギョイヨン夫人の自叙伝』『スピノザ伝』
  • ゲーテの作品
    『ある美しい魂の告白』『聖フィリッポ・ネーリの生涯』

§68-2 家畜の救済

意志の否定を行う人の肉体は健全であり、生殖器を通じて性的衝動を表明してはいても、もはや新しい命を生み出そうとは思わない。自発的な純潔こそ、救済の第一歩である。世界中がこのような人ばかりになれば、人類は滅びてしまうだろう。

それでよいのだ。

認識主観である人類が消滅すれば、この世界が消滅したに等しい。なぜなら、世界は表象であり、主観のないところに表象は無いからである。

人間の消滅は、次に動物界に影響を与える。人間は動物を利用する代わりに、救済を与えなければならない。万物は人間によって神のもとへ引き上げられねばならない。人間は万物に対する司祭である。その慈悲は世界の苦悩を自分のものとすることからもたらされる。よって、人間は万物のための犠牲である。

§68-1 生きんとする意志の否定

「個体化の原理」を突き破った人にとっては、他人と自己の区別が無いので、他人の苦痛を自分の苦悩として感じる。最高の慈悲深さを持つばかりに、自分を犠牲にして、自分自身の命を犠牲にしてさえ他人を救おうとする。こうして、彼は全世界の苦痛を我が物にするだろう。

彼にとっては、意志の衝動から生まれる欲望でさえも、世界の苦痛の認識にかき消されてしまう。いわば、認識がいっさいの意欲の鎮静剤となる。これが、生きんとする意志の否定の状態であり、自発的な断念、捨離、沈着、無意志の状態である。