§4 読書をして良い場合とは

ただ思索の湧出が途絶えた場合だけが、読書をして良い場合である。自ら思索を放棄して読書に向かう者は、植物図鑑を眺めるために、広々とした自然から逃亡する愚か者のようだ。

自分で考えたと思っていた同じ結論が、本にすでに書いてあったらどうする?という反論もあるだろう。しかし、本に書いてあることを我々が真に理解することは出来ない。自分の思索で獲得した真理の価値は、書中の真理の価値に100倍も勝るのだ。その価値は、

  • 自分の思想との有機的結合
  • 一貫性。真理の特徴に自分の特徴が染み付いていること
  • 自分が決して忘れないこと

である。

例えば、思索するものは、他人の権威ある説を自説の検証に使うに過ぎない。ところが、凡人は、他人の権威ある説を組み合わせて体系を作るのだ。

自分で考え抜いた真理は、自分の精神によって身篭られ、産み落とされ、一個の生命を得る。他人の寄せ集めで出来た継ぎはぎの真理は、決して生命を得ることはない。

§2 読書の害悪

頭脳には、思索向きの頭脳と、読書向きの頭脳がある。

読書は、いつでも誰にでも、紋切り型の思想を押し付ける。精神は圧迫され、弾力性を失う。彼らが本を書いたとしても、その著作はつまらない。彼らは、「永遠に読まれざるため、永遠の読書を続けている」。

思索は、自由な精神が、気分とその場の材料で、既成の思想を押し付けられずに行うものである。

自分の思想を所有したくなければ、暇を見つけ次第、本を手にすることだ。

学者とは書物を読破した人、思想家とは世界という書物を直接読破した人のことである。

§1 思索と読書

知識のうち価値あるものは、思索によって得た知識だけである。

思索によって知識を得ることは、読書や学習によるそれとは決定的に異なる。何か一つのものを本当に「知る」には、思索を通して、自分の中のあらゆる知識と比較検討し、結合させる必要があるからで、読書や学習では「本当に知る」ことは出来ない

読書は誰にでも出来ることだが、思索、とくに客観的な真理についての思索は、天才以外には不可能である。