§43 建築・水道

物質が認識されるのは、認識に働きかけるときだけである。この事を物質は因果性であるというが、これは物質そのものは概念に過ぎないことを意味する。物質自体は直感されることができない。物質は単にイデアと個体の関節である。というのは、物質の諸現象、重力、凝集力、剛性、流動性、光への反応性はイデアの現象だからである。

建築は(住むためのものだから)意志に仕える不純な芸術だが、重力や剛性、光への反応性といった、素材のイデアを表現することはできる。この重力と剛性の闘いこそが、建築の美の源泉である。

何と言っても、ある建築作品を見ていて感動しているとき、その材料が軽石であると打ち明けられたら、贋の建物に思えて興ざめだろう。

木造建築が美術たりえないのも同じ理由である。このことを説明できるのは今のところ私の理論のみである。

建築の部分部分の美しい造形は二義的なものである。何故なら、廃墟でさえ美しいからである。

日光や月光も建築を美しくする。

建築は実用本位なので美的側面が弱いが、実用のため数多く建築、維持されてきたので、実用性があるから美術として不利かというと、一長一短である。

水道芸術(噴水)は、建築に加えて流動性のイデアを表現するが、実用性はない。

§42 美の2種類の泉の味わい

「何の」イデアを認識するかにより、ものの美しさは変化する。

高位のイデア、つまり人間の本質が題材である芸術を認識する場合は、イデア自体に美の味わいの泉がより多く存在する。逆に、低位のイデア、例えば建築物という人工物に表現された、重力と剛性のイデアを認識する場合は、純粋認識状態に美の味わいの泉がより多く存在する。

高位のイデアとは何か。意志の激しさや恐ろしさ、満足、挫折、悲劇が人間の本質である。とくにキリスト教絵画では、意志の自己廃棄がテーマとなる。

ここからの章は、さまざまな芸術を一つ一つ検討することになる。

§41 イデアの段階性と美

美の主観的側面は、主観が意志への奉仕から解放され、純粋認識になることであった。この章では美の客観的側面について論じる。

何物も純粋認識を拒むことはないから、どんなつまらないものも美しいといえる。それにもかかわらず、あるものが他のものより美しいということが起こるのはなぜか。それは、

  • 「何(what)」のイデアか(イデアの段階性)
  • それが「どのくらい(how)」イデアを伝達しやすいか(芸術の形式)

に左右されるからである。

本章では、「何」のイデアか、がどの程度美しさに影響するかについて論じる。

イデアには高位のイデアから低位のイデアまでの段階性があるから、最高位のイデアである人間の本質の解明こそが最も美しい。これが芸術の最終目的である。

逆に最低位に近いイデアは無機物のイデアであるが、どんなつまらないものも美しいといえる。低位のイデアとして、椅子や机といった人工物にもまたイデアはある。しかし、人工物は形式であって、人工物のイデアは素材のうちに現象しているイデアであることに気を付ける必要がある。

§40 魅惑的なもの

崇高なものの反対は、魅惑的なものである。なぜ私がこう定義するかというと、魅惑的なものは意志を肯定するものだからである。崇高なものは、意欲を消滅させる。

例えば、芸術であっても、食物そっくりの静物画は食欲を起こさせ、裸婦像(古典的なものを除く)は性欲を起こさせる。こうした意欲を起こさせる性質は、芸術本来の目的であるイデアの伝達とは真逆である。だから、芸術においては、魅惑的なものは避けられなければならない。

また、意志を刺激するという点では、見ただけで嘔吐を催させるものもまた「魅惑的」である。これが消極的魅惑である。

§38-1 美の認識における満足感

美を認識すると、満足感が生じる。この満足感の正体は何だろうか。

人は、満足とは、意欲が満たされることだと考えているが、実は違う。
意識が意志に奉仕している限り、一時的に意欲が満たされても、すぐに新しい意欲がその同じ場所に起こる。要は、苦悩や享楽に突き動かされる限り、けっして永続的な幸福には辿り着かない。これは、まるで死海に繋がれたタンタロスのような状態である。

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死海に繋がれたタンタロス

しかし意欲のこのはてしない流れから、偶然や気まぐれにより解放される瞬間がある。この状態が前述の純粋認識の状態であり、意欲と根拠の原理に従う認識方法を廃棄した状態である。この状態に達すれば、求めても求めても逃げられてしまう心の平安が、ひとりでに実現される。

芸術はイデアを伝達すると述べた。オランダの風景画、ロイスダールやフェルメールの風景画に描かれているのは、ありふれた風景である。だからこそ、これらの芸術家の非凡な穏やかな心境を、我々観賞者のうちにももたらしてくれる。

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ロイスダールの絵

§37 芸術作品によるイデアの伝達

天才とは、純粋な認識主観になりきる能力をもつ人であるが、凡人にも、同様の能力がいくらかはある。ただ、天才は長時間純粋な認識主観になりきれるので、認識したイデアを芸術作品という形で再現出来るのに対し、凡人はつかの間の間鑑賞が出来るだけである。

ともあれ、天才は、作品の形で他人にイデアの認識を伝達出来る。

イデアは唯一なので、純粋な認識主観として認識しようが、芸術作品を見て認識しようが、同一のイデアであり、優劣は無い。このように考えると、芸術作品はイデアの認識を容易にする一つの手段ということになる。

芸術家は、純粋な認識主観である間、イデアのみを認識して、個別の物が認識出来なくなってしまうので、作品の上にもイデアのみが再現され、いわばよけいな物が削ぎ落とされた形になっている。忘我の際にも、芸術における技術面が、この伝達を可能にしてくれている。