§60 エロス

ここからは、意志の肯定について論じる。

人間が自己保存に成功して、次に行う努力は種族の繁栄である。性欲を満たすことは最も積極的な意志の肯定である。

ヘシオドスやパルミデネスは、「エロスこそは万物の根本」であると言った。性欲には意志が最も強力に働くからである。

死は既に生が始まるときに決まっているから、意志を損なうものではない。意志は個体ではなく種族を保存する。意志は種族として、イデアとして、無規定の時間の中に現象する。

キリスト教には、根拠の原理から解放された箇所がある。それは原罪であり、アダムが性欲を満足させたことである。これは、生殖という種族の絆により、個体に分散してしまった人間が統一を回復するというイデアを教義にしたと言える。

各個体は意志の肯定としてアダムと同一であり、意志の否定としてキリストと同一である。これが救世主による救済という教義である。

§59 悲観と楽観

世界は偶然と誤謬に支配されている。

思考の国は不条理に支配されている。

芸術の国は凡庸さに支配されている。卓越したものは同世代の恨みを免れたずっと後で再発掘され、まるで地球外から来た隕石のように珍重される。

一生は苦難や災難に支配されている。自殺する人もいるくらいである。短さが生の最も善いところではないだろうか。

ダンテの神曲の地獄篇は、どの世界から材料をとってきたのだろうか?この世界である。どんな楽天家でも、外科手術室、監獄、拷問室、奴隷小屋、戦場、処刑場と連れ回せば、世の中について悟るだろう。ダンテの楽園には祖先や恋人や聖者ばかりで、純粋な歓喜が描かれていないのは材料が無かったためである。

人間はこうした苦悩に際して、自分に立ち帰るしかない。楽天主義は何も考えていない連中の、不条理な、放埓な考えである。

§58-2 退屈の排除

人生の活動には三つの極端がある。

  1. ラジュア=グナ 強烈な意欲と大きな情熱。偉大な人物に見られる
  2. サットヴァ=グナ 純粋認識によるイデアの認識。天才に見られる
  3. タマ=グナ 意志が眠りにつき、空虚で退屈な状態。

しかし、人はこれらのどれにもとどまることが出来ず、いや実際はどれかに近づくことすら滅多になく、3つの間をぐらつきながら転々とすることで小さな対象をがつがつと追い求める生を送っているのだ。

人は喜劇役者のように、欲望に突き動かされるままに、様々な苦労に満たされているが、苦労することには退屈を排除する力は無い。すると人間の精神は、迷信を生み出すようになった。そして、迷信と空想の中で精神力を浪費することで、退屈を避けるのである。

迷信は、生活のしやすい、インド、ギリシャ、ローマ、スペインなどの地域に多くみられる。

一生のほとんどを供え物、礼拝、願掛け、巡礼、聖像の飾りつけなどに空費していると、人生のいかなる幸運もこれら御本尊からの反応だと受け取られ、ついには錯覚の魅力によって、こういうものと交渉しているほうが現実のものと交渉するより面白くなってくる。救いと加護を求めているはずなのに、貴重な時間や精力を無駄に使ってしまい、救いはますます遠ざかってしまう。しかし、そのような人は、退屈の気晴らしが出来るという実に有難い御利益を賜っているのである。

§58-1 幸福

持続的な幸福はあり得ない。なぜかと言うと、幸福とは「苦痛が無いこと」だからである。

だから、幸福や目標を達成しても、享楽によっても、単に苦悩や願望から解放されただけである。むしろそこには退屈がやってくるのだ。

苦痛が積極的なのに対し、幸福は消極的である。だからこそ長続きする幸せなどというものはあり得ない。絶え間なく苦痛が生まれることは人生の本質だからである。

積極的な幸福が存在しないことは、どんな詩も劇も、幸福を得ようとして格闘し努力し戦闘するさまを描くだけで、永続的で円満な幸福それ自体を描くものではないことからもわかる。主人公が幸福を探り当てるや否や、幕を下ろしてしまうしか、文学にできることは無いのである。また永続的な幸福を描こうとした芸術、例えば田園詩、牧歌は、退屈である。

そもそも宇宙は空虚であり、全ては最終目標も無ければ終点も無い努力である。

§57-3 精神の容量

非常な歓喜を覚える人は激しい苦痛も味わわなければならない。これは、一度に受け取れる歓喜や苦痛の容量が、その人の精神的感受性により一定だからである。

非常な歓喜や苦痛は、現在的なものではなく、未来の先取りによる。言い換えれば、それは誤謬や妄想である。

我々は、事物の関連を明瞭に見渡して理性的に洞察し、辛抱強く自制しなければならない。しかし実際には苦い良薬には目を防いでしまうほど、我々は愚かである。

§57-2 不変の苦痛とそれへの対処

絶え間無い苦痛が人間の本質だから、逆に何をしても苦痛の総量は変わらないということを認識すれば、心は慰められる。苦痛は偶然に左右されない必然だ。

苦悩を追い払うことは出来ない。苦悩は絶えず形を変えてやってくる。性衝動、愛、嫉妬、羨望、憎悪、不安、名誉心、金銭欲、病気…。

しかし、我々が苦痛に対してイライラするのは、それを偶然だとか、自分の運が悪いせいだとか思うことによるのである。

苦痛は必然であり、あらゆる形をとって絶えずやって来ると分かっていれば、我慢が出来る。死や老いに我慢がならなくて始終イライラしている人がいないのも、それが避けようのないものだからである。

普通の人は苦痛を外的原因によるものと考え、いつも苦痛の言い逃れを見つけようとしている。これはあたかも、自由の身でありながら、奴隷に戻ろうとするような行為である。

§57-1 休み無い死

現在が手をすり抜けて過去になっていくことは、死への休むことの無い移行だ。

歩行は絶え間無い転倒の阻止である。活気は絶え間無い退屈の延期である。食事も睡眠も暖をとることも、死の延期である。

この不断の生への努力によって苦痛が生まれる。

人間は苦痛と退屈の間を往復する振り子運動だ。さらに生殖の義務と、外敵とが人間を脅かす。

そして、最期には必ず死との闘いに敗北する。人生は難破を目指して、岩礁と渦巻きに満ちた海を航海することである。

§56 意志の肯定と否定

人間の生き方には二つの可能性がある。

ひとつは、意志である自分の意欲を、次々に満たして行く生き方。これが、意志の肯定である。

もう一つは、イデアの認識を鎮静剤とし、意欲することを自然と辞めてしまう生き方。これが、意志の否定である。

従って、前者の生き方で、意欲を満たしきることが出来るのかが問題になる。

宇宙は無目的である動物の世界は苦悩の方が多い。では人間の世界は、快楽が苦悩を補って余りあると言えるだろうか?

§55-2 概念の闘技場

人間には自由意志が無く、行動は必然である。その過程が動物と異なるのは、人間においては抽象的な概念を比較検討することにより、長期的なメリットなどが考慮された決断が下せる事である。

いわば、人間は概念の闘技場であるといえる。

人間は概念を利用することで生存を有利にしたが、逆に人間の最大の苦悩も概念から生まれることになった。

例えば死は概念であるし、人に指摘されて初めて苦悩が生じる場合などは、概念の伝達された場合である。精神的苦悩から逃れるために、肉体的苦悩を自ら選ぶことさえある。例えば、悩んでいる時に頭を掻きむしる行動がこれである。

§55-1 人間の自由意志の否定

現象界、すなわち表象としての世界は根拠の原理に支配された、必然の世界である。だから無機物や植物や動物の行動は常に必然的で、自由はない。人間行動も、動機に規定される面では自由は無い。

ただ、人間の認識は世界の完全な鏡であるから、意志による自由の余地が生まれる。

我々はカントに倣って、性格の自由な面すなわち意志を永遠不変な叡智的性格と呼び、性格の根拠の原理に支配された面を経験的性格と呼ぶ。

正確には、動機がある場合、意志が、つまり叡智的性格が決断し、行動するのだが、それを後から知性が認識し表象となったものが経験的性格である。

だから、地面に立てた棒が右か左に倒れようとしている時、重力がそれを決定した結果が経験的性格であり、棒を地面に立てると、右にも左のどちらにも倒れうる可能性が生じるという事実が叡智的性格である。

しかし、右にも左にも倒れる可能性が、自由があるように見えるのは見かけだけで、本当は平衡を失った瞬間に結果は決まっているのである。

叡智的性格は意志であり、時間の外にあるため、永遠に不変である。だから、知性と意志の闘争の結果ではあるといえ、その結果は結局必然に支配されている。

つまり、人間に無差別な意思決定が可能であるという主張は間違っている。デカルトやスピノザの主張がこれにあたる。

特に、人間はこんな人に成りたい、あんな人に成りたいと決心して変わることは不可能である。意志は自由意志ではなく、生の衝動である。人間は生の衝動であり、その性格は高次のイデアであり、自分自身を経験的性格として追認していくことしか出来ない。