意志の多様な現象(諸イデア)は、和解なき闘争を永遠に続けている。
特にイデアは人間を頂点とするピラミッドを形成しており、人間かその維持のために動物を必要とし、動物は段階的に他の小動物を、またさらに植物を必要とし、植物はふたたび土壌、水、化学的要素、ならびにそれらの混合物、惑星や太陽、自転と太陽をめぐる公転、黄道の傾斜、等々を必要としている。意志以外にはこの世界になにひとつ存在しないのに、しかも意志は飢えたる意志であるから、おのれ自身を食い尽くさなければならない。狂奔、不安、苦悩、いずれもここに由来するのである。
しかし、イデアの相互作用には適応という面もある。この面は、動物の行動を観察するとよく分かる。
まず一つは、空間的な適応である。動物は環境に適応しているが、逆に環境が動物に適応するということも起こる。これは、イデア同士が時間の外で相互適応しているからである。
- それゆえいかなる植物も土壌と気候に適合している。
- いかなる動物も生活環境と、獲物に適合しているし、天敵からもなんらかの仕方で保護されている。
- 眼は光とその屈折に適合している。
- 肺や血は空気に適合している。
- 魚の鰾は水に、
- 海豹の眼はその媒質の変化に、
- 中に水を含んだ駱駝の胃の中の小胞はアフリカ砂漠の乾燥に、
- タコブネの帆はその小さな舟を押し進めるべき風に、
それぞれ適合しているのである。
このイデア間の協調的な相互作用を外的な合目的性という。
外的な合目的性の他の二つは、時間的・因果的な適応である。
いかなる動物も、時間的にすでに前からあった環境そのものか、やがて将来に生じるであろう生物をも同様に考慮に入れていたと想定することができる。現象は現象である以上、因果の法則に従っているが、時間の順序のなかへ自分の現象をより早く出現させたイデアは、遅く出現させているイデアよりも、時間的に早いというだけでなんらかの特権をもっているわけではない。むしろ自分の現象を遅く出現させているイデアの方が、ちょうど意志の客観化のもっとも完全なものになっている。(ショーペンハウアーの考えにはこうした直観的な進化論の萌芽がみられるように思える)
この現在においては、種族は自分を維持するだけではなく、自然の先慮に従っている。本来的に時間の順序をいわば切り捨てながら、未来へと及んでいく、そのような自然の先慮を目にすることがあるのである。こうした例をあげるなら、
- 鳥はまだ知らない雛のために巣を造る。
- 海狸は自分で目的も知らずにある建物を築く。
- 蟻、山鼠、蜜蜂は自分の知らない冬のために貯蔵食糧を集める。
- 蜘蛛、蟻地獄は自分の知らない将来の獲物のために、まるで策をめぐらしたかのように罠を設営する。
- 昆虫はやがて生まれてくる幼虫か将来食物を発見できるような場所に卵を産みつける。
- 雌-雄異株の石菖藻の花の咲く頃、雌花がそれまで自分を水底に繋ぎ止めていた茎をほどいて、水面に浮かび上がってくると、それまで水底で成長していた雄花は、同時に水面に浮かび漂いながら雌花を探し求める。受精をすませると、雌花のみ再び縮んで水底に戻り、水底で実を結ぶ。
- くわがた虫の雄の幼虫は、成虫へ脱皮するため木のなかに雌の幼虫の二倍ものほら穴を噛みあげるのであるが、これは将来生えてくる角を容れるための場所である。
本能は、このように目的概念に従った行為にきわめて似ていながら、実際には目的概念を完全に欠いている行為である。これが、イデア間に合目的性がある証拠である。