古代の彫刻では裸体像が好まれる。これは、美しい身体の形は、軽装時に最も効果的に暗示されるからである。
同様に、思想豊かな美しい精神は、自然に、平明に自己を表現する。貧弱な精神は、遠回しで曖昧な、小難しげな言い回しで武装して、華麗ではあるが空漠としている。
https://soqdoq.com/symposion
古代の彫刻では裸体像が好まれる。これは、美しい身体の形は、軽装時に最も効果的に暗示されるからである。
同様に、思想豊かな美しい精神は、自然に、平明に自己を表現する。貧弱な精神は、遠回しで曖昧な、小難しげな言い回しで武装して、華麗ではあるが空漠としている。
ラオコーンは神々に罰を受け、大蛇に絞め殺された。このような状況では悲鳴を上げざるをえないのに、ラオコーン像は悲鳴を上げていない。この問題は、ずっと議論されてきたが、我々の理論では単純だ。
芸術には各々限界がある。絵画や彫刻は美を損なわずには悲鳴を表現出来ないから、ラオコーン像は悲鳴を上げていないのである。
人間の美しさは
に基づいている。
動作の美しさは、「優美さ」である。動作が意志の欲求を最短経路で淀みなく実現するときが、最も優美である。つまり動作の優美さとは合目的性である。逆に、動作が意志に一致しない場合、優美さを欠いている。動物の動作にも優美さがある。
芸術においては、1.姿の描写と3.性格の描写は両立せねばならない。1.に偏れば無意味なものになり、3.に偏ればカリカチュア(風刺画)になってしまう。例えば彫刻は1.の美を目指しているが、美は幾分かは3.性格によって変容されねばならない。
芸術においては、3.性格の描写は1.種族の特徴の描写を毀損してはならない。この例は、酔っぱらいのシレノスやサテュロスを醜悪に描きすぎて、人間とは思えないほどになってしまった場合である。
同様に、3.性格の描写は2.動作の優美さの描写も毀損してはならない。この例は、性格を表現するために不自然な姿勢や動作を取らせることにより、意志と不整合になってしまう場合である。
彫刻においては1.の美と2.の優美さに重点がある。これに対し、3.性格の描写には絵画に分がある。次章(§46 ラオコーン像)では、ラオコーンを描写した絵画では悲鳴を表現できるが、ラオコーンを描写した彫刻では悲鳴を表現できないことについて論じる。
最高位のイデアは人間である。専ら種族の特徴に基く動物の美とは異なり、人間の美しさは
に基づいている。
人体の各部は最高度に意志を客観化しながら、相互に秩序づけられ、全体に従属している。この稀にしかない条件の下で、低い段階のイデアを全て打ち負かし、物質を奪い取って凝集した結果が人体の美である。
芸術家は、経験に先立って人体の美を知っている。芸術家は、決して、模倣によって人体の美しさを表現するのではない。また、決して、多くの人間にバラバラに配分されている最も美しい部分を寄せ集めて人体の美しさを表現するのでもない。
本物の芸術家は、人間の美しさを並々ならぬ明澄さを持って認識し、かつて自分が見たこともない仕方で人間の美しさを描き出し、その描写においてはついに自然を凌ぐ。自然は人間のイデアを表現しようと努力しているが、天才は個体の中にイデアを認識することによって、自然の言葉を半分聞いただけでも自然を理解することができる。彼は認識したイデアを大理石に彫り付けて、「これこそお前の言いたいことだ!」と自然に叫び掛けるのである。そして、芸術を理解する人間の「そうだ、それであったのだ!」という声がこだまして反って来るであろう。
同様に、シェイクスピアの生み出すリアルな人物像が、彼の人生経験を忠実に再現したものだという推測はばかばかしいくらい間違っている。彼は先験的に人間の本質を認識し、彫刻のように詩文芸に刻みつけたのだ。
造園芸術が植物の美と多様性に付け加えることは少ない。むしろ植物を題材とする芸術は、静物画が主である。
静物画の題材はつまらぬものであり、その感動は主に純粋認識状態そのものからくる(§42)。題材そのものが美の味わいをもたらしてくれるのは、動物画や動物彫刻である。古代の動物彫刻は今の時代まで伝わっている。
動物彫刻においては、美的満足の客観的側面が、主観的側面に対し決定的優位を勝ち得ている(§42)。動物のイデアは種族としての特徴に基く。植物の種族としての特徴は形態に限られるが、動物の種族としての特徴は形態・動作ともに表れている。しかし、性格を欠いているために、種族の特徴は個体を特定するほどではない。
動物を直接観察するのも良い。なぜなら動物は意志の客体化であり、すなわちイデアを認識することになるからである。
物質が認識されるのは、認識に働きかけるときだけである。この事を物質は因果性であるというが、これは物質そのものは概念に過ぎないことを意味する。物質自体は直感されることができない。物質は単にイデアと個体の関節である。というのは、物質の諸現象、重力、凝集力、剛性、流動性、光への反応性はイデアの現象だからである。
建築は(住むためのものだから)意志に仕える不純な芸術だが、重力や剛性、光への反応性といった、素材のイデアを表現することはできる。この重力と剛性の闘いこそが、建築の美の源泉である。
何と言っても、ある建築作品を見ていて感動しているとき、その材料が軽石であると打ち明けられたら、贋の建物に思えて興ざめだろう。
木造建築が美術たりえないのも同じ理由である。このことを説明できるのは今のところ私の理論のみである。
建築の部分部分の美しい造形は二義的なものである。何故なら、廃墟でさえ美しいからである。
日光や月光も建築を美しくする。
建築は実用本位なので美的側面が弱いが、実用のため数多く建築、維持されてきたので、実用性があるから美術として不利かというと、一長一短である。
水道芸術(噴水)は、建築に加えて流動性のイデアを表現するが、実用性はない。
「何の」イデアを認識するかにより、ものの美しさは変化する。
高位のイデア、つまり人間の本質が題材である芸術を認識する場合は、イデア自体に美の味わいの泉がより多く存在する。逆に、低位のイデア、例えば建築物という人工物に表現された、重力と剛性のイデアを認識する場合は、純粋認識状態に美の味わいの泉がより多く存在する。
高位のイデアとは何か。意志の激しさや恐ろしさ、満足、挫折、悲劇が人間の本質である。とくにキリスト教絵画では、意志の自己廃棄がテーマとなる。
ここからの章は、さまざまな芸術を一つ一つ検討することになる。
美の主観的側面は、主観が意志への奉仕から解放され、純粋認識になることであった。この章では美の客観的側面について論じる。
何物も純粋認識を拒むことはないから、どんなつまらないものも美しいといえる。それにもかかわらず、あるものが他のものより美しいということが起こるのはなぜか。それは、
に左右されるからである。
本章では、「何」のイデアか、がどの程度美しさに影響するかについて論じる。
イデアには高位のイデアから低位のイデアまでの段階性があるから、最高位のイデアである人間の本質の解明こそが最も美しい。これが芸術の最終目的である。
逆に最低位に近いイデアは無機物のイデアであるが、どんなつまらないものも美しいといえる。低位のイデアとして、椅子や机といった人工物にもまたイデアはある。しかし、人工物は形式であって、人工物のイデアは素材のうちに現象しているイデアであることに気を付ける必要がある。
崇高なものの反対は、魅惑的なものである。なぜ私がこう定義するかというと、魅惑的なものは意志を肯定するものだからである。崇高なものは、意欲を消滅させる。
例えば、芸術であっても、食物そっくりの静物画は食欲を起こさせ、裸婦像(古典的なものを除く)は性欲を起こさせる。こうした意欲を起こさせる性質は、芸術本来の目的であるイデアの伝達とは真逆である。だから、芸術においては、魅惑的なものは避けられなければならない。
また、意志を刺激するという点では、見ただけで嘔吐を催させるものもまた「魅惑的」である。これが消極的魅惑である。
崇高感とは、「意識的に」認識を「意志の利害関心から解放」することによって、「人間(個体)を超越」する高揚感である。
崇高と美はともに人を純粋認識に至らせるものであるが、以下のような決定的な違いがある。
まず美の例として、自然、とくに植物の美しさには、人を純粋認識に引き込む力がある。この力は、意志と敵対関係にある。美は、意志と何ら闘うことをしないで、主導権を握ってしまう。
崇高さは、逆に、意志の客観化つまり個体としての人間が、自然に対して圧倒的に不利である状況から始まる。この不利さから、人間が意識的かつ無理強いに自らの認識をもぎはなした結果(現実逃避)、純粋認識の状態に至る場合がある。このときに崇高感が生じる。これは美と異なり、自然が我々のほうに歩み寄ってこない場合である。 しかし、美と崇高は、純粋認識には同じものであり、美から崇高への移り変わりが起こりえる。
力学的崇高は、暴力的な壮絶な力によって意志が脅かされる場合の崇高である。 自分の声も聞こえないほどの激しい大瀑布。激しい嵐、一面の黒い雷雲、折り重なって視界を阻む岩肌剥き出しの懸崖絶壁。滔々と泡立つ激流、荒涼たる風景。峡谷を吹き抜ける風の慟哭。こうした状況では意志は完全な敗北を悟るが、逆に認識主観は純粋に冷静にこれらのことを観賞するであろう。この境地にあっては、認識主観は完全に個体性を超越している。
数学的崇高は、空間や時間の大きさによって意志が脅かされる場合の崇高である。 それは、大瀑布や非常に高い山々、砂漠、星空などの雄大さに押しつぶされたり、天井の高い大聖堂、エジプトのピラミッド、太古の巨大な廃墟で荘厳さを感じたり、宇宙の永劫の時間に想いを馳せる時に、自らの存在がとてもちっぽけなものに思えるあの感覚である。このような壮大な存在に対し、意志は敗北を認めざるを得ない。しかし、認識主観は、意志を敗北させた雄大な物を、意志から離れて鑑賞することができる。これが、自らの意志の超克である。
厳冬のさなか、自然界が氷結している頃、低くさす陽の光が石の塊りに当たってはね返されるさまをわれわれは目撃するとしよう。 こうした場面では陽の光は射すには射すけれど、熱を与えることはない。光が認識であるとすれば、熱は生命の源、意志である。したがって陽の光は純粋認識形式にとってのみ都合がよい状態で、意志にとっては不都合な状態であるといえる。
石の塊りに陽の光が及ぼすこの美しい作用をじっと眺めていると、われわれはすべての美しいものを眺めたときと同じように、純粋認識の状態へと移し変えられるのである。これが美から崇高への移行である。