自然力も意志の客観化であるが、この意志は、プラトンのイデアである。
イデアは、時間・空間・因果性のフィルタを通して我々に認識される。これを数多性というが、
数多性を持つのはイデアの模像のみであって、イデア自体はこうしたフィルタの外にある。
我々が個体である限り、フィルタを通してみることしかできないから、
イデア自体を認識するには、我々が個体であることをやめるしかない。
第三巻では、この目的に近づくためにどうすればよいか考える。
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自然力も意志の客観化であるが、この意志は、プラトンのイデアである。
イデアは、時間・空間・因果性のフィルタを通して我々に認識される。これを数多性というが、
数多性を持つのはイデアの模像のみであって、イデア自体はこうしたフィルタの外にある。
我々が個体である限り、フィルタを通してみることしかできないから、
イデア自体を認識するには、我々が個体であることをやめるしかない。
第三巻では、この目的に近づくためにどうすればよいか考える。
意志は人間・動物・植物・自然力として現象する。
意志そのものは無根拠であるが、意志の現象は根拠の原理に支配されている。
ここでは、そうした現象の例をそれぞれ見てみよう。
まず人間は、動機に支配されている。人間の自由意思は、意志そのものの無根拠性の証である。しかし、個体すなわち人格となるとほとんど経験に規定されている。動機が性格に働きかけ、行動に帰結するにはほとんど必然性が働いている。よく、人が反省しても自分自身を変えることができないのも、こうした必然性の影響である。倫理については§55で述べる。
動物は、本能に支配されている。動物は人間と異なり、理性を持たない。しかし、それでも本能に従った行動に帰結する。
例えば動物の工作衝動は、動機や目的無しに起こる。例えば幼い蜘蛛は獲物を獲ったことがないのに巣を作る。しかし、この蜘蛛は餌が空を飛んでやってくることも、自分の巣が獲物を捕らえる方法も、表象として認識していないうちから、巣を作るのである。また、蝸牛も、経験によらずに殻を形成する。つまり、経験を根拠として巣を作るのではなく、無根拠な、盲目的な意志の客体化として工作衝動があるのである。
植物も、刺激に支配されている。植物は動物と異なり、認識を持たない。植物は刺激に対して盲目的に運動する。この運動を成り立たせる、盲目的な力も、われわれの意志と同一視できる。
最後に自然力は、完全に自然法則により一寸の誤差も無く作用するが、われわれは人間の意志という本質を再認識することができる。
以上のように、意志は、認識を伴っていてもそれには導かれずに、いわば盲目的な活動状態にあり、あらゆる形をとって現象する。つまり、世界の本質は盲目的な意志の集合である。全ての現象の裏に意志が存在すると考えるに当たり違和感を生じるのは、人間における意志の現象に、無規則な恣意性が認められることであるが、それを生じさせる個性についても考えれば良いということに過ぎない。
さて、意志としての世界と表象としての世界は、どう関わるのだろうか?
自分自身という現象以外の表象に、意志の考え方を当てはめたらどうなるだろうか。
自然界に盲目的に働くあらゆる力 – 植物の成長力、結晶の形成力、磁力、物質の離合集散を起こす親和力、そして万有引力 –
これら各現象はわれわれに認識される意味で表象であるが、その現象の奥に「物自体」(カント)が存在したと仮定してみよう。
するとそれこそが意志であり、自然界のあらゆる力は意志の客観化であることになる。
すべての表象、すべての客観は意志の現象であり、客体性である。
意志は盲目的に作用しているすべての自然力のうちに現象する。
意志は意欲を引き起こすが、それは随意運動ではない。
随意運動は動機によって引き起こされるが、動機が規定しているのは、特定の場所で、特定の時間に、特定の内容を意欲させるということで、一般的な意欲を引き起こすことは出来ない。
しかし、「生きたい」という意欲は、場所にも時間にもよらず引き起こされる。これは意志が引き起こす意欲である。
われわれがなぜ「生きたい」と一般的に意欲するのかは、動機から解明することは出来ない。
このように、一般的な意欲は、動機に支配されていないのである。
同様に、身体の組成・成長・維持について生理学的に説明し、身体の運動を有機体における原因に還元しても、身体の組成・成長・維持がなぜ存在するのかは説明できない。
なぜ身体の組成・成長・維持が一般的に引き起こされるのか。
有機体における自然法則は客観化された意志、すなわち意志の現象だからである。
この傍証は、身体の各部の合目的性である。
例えば歯・喉・腸は客観化された飢餓であり、生殖器は客観化された性衝動であり、手・脚は様々な目的に対応し、個人の体系は客観化された個人の性格である。
われわれにとっての自然界のあらゆる客観には、表象としての意味しか無いのであろうか。
もし、自然界のあらゆる客観から表象性を取り去り、それでもなお残るものがあるとすれば、それはわれわれが自らの身体について「意志」と呼ぶものと同一であるに違いない。
ここで、意志そのものと意志の現象を区別しておかなければいけない。
例えば、石を地面に落下させる力という客観から、表象性を取り去り残るものは意志そのものである。
しかし、「石が運動するのも、石が外界を認識し、動機を生じそれに従って起きるのだ」というのは馬鹿げた考えである。
認識や動機は意志の現象に属すものであり、意志そのものはもっと根源的な別のものなのだ。
ケプラーは第2法則(角運動量保存の法則)
πab = P(r^2)(dθ/dt)
a:短半径 b:長半径 P:周期 r:中心からの距離 dθ/dt:角速度
を発見した際に、このような美しい法則が成り立つからには、惑星に意識があり認識や動機があるからに違いないと推論したが、馬鹿げた考えである。
悟性が世界を直観できるのは、身体の受ける刺激による。
しかしわれわれが身体を直観する場合は、他の表象と同じではない。
われわれは身体の動きを、他の客観と同様に認識しているだけではなく、
意志を通して主観的にも認識しているからである。
意志の働きと身体の活動は、原因と結果ではない。これらは同一のものである。
身体の動きを随意運動とか不随意運動とかいうが、
意志を通して主観的に認識しているものを、
客観的に認識したらこのような表現になるに過ぎない。
いわば、身体の活動は客観化された意志である。
このように、身体の活動は直接の客観である(§も参照)。
意志の働きと身体の活動は同一なので、意志を客観化したものも直接の客観である。
ゆえに私は、身体を、意志の客体性と名づける。
意志が興奮すれば、身体の機構はゆさぶられ、乱される。
意志の働きと身体の活動は、このように表裏一体である。
この事実は、もっとも直接的な認識、最高の意味での奇蹟であり、
相対的な真理ではなく、それゆえに演繹も証明も出来ない。
また分類も出来ず、論理的な真理/経験的な真理/先験的な真理/高次論理的な真理のいずれにも該当しない。
われわれはこの事実から出発して、「知(Wissen)」に高めていく。
数学も、哲学も、自然科学も全てダメだ。
既存の学問は全て、原因論的な説明に過ぎない。2つのものの片方を原因、片方を結果としてみても、ひとつの相対的な真理が明らかにされるに過ぎない。
これでは、世界の本質、つまり世界が単なる表象ではないという一面に迫ることは出来ない。私は問う:
「この世界には表象のほかには何も無いのか?
われわれの傍を通り過ぎる蜃気楼なのか?そんなはずは無い。
そうでないとしたら、その本質は何であり、
どのように表象と根本的に異なっているのか?」
既存の学問は全て、城の周りをぐるぐる回って入り口を探しても見つからないので、さしあたり正面のスケッチでもしておくというような人に似ている。
しかし、以下に述べるように、私は世界の本質を解明する、新たな思想を生み出したのだ。
貪り食う動物の喜びと、今まさに貪り食われている側の動物の苦しみを足してみたまえ。世界には苦痛のほうが多いことが容易に判るだろう。
出典:
解説:
ショーペンハウアーの哲学は厭世哲学と評されることがあり、この言葉に端的に表れている。
この考察から、動物にとっての幸福とはまず苦痛が無い状態であるとされた。
幼いころから商人だった父に連れられて世界中を旅し、下層階級の人々が虐げられる様を嫌というほど見せつけられてきたショーペンハウアーの、原体験が窺える言葉。
自然現象を成り立たせているものとして、哲学では「力」という概念が利用されてきた。
しかし、実は「力」とは相対的な概念に過ぎない。
「力」とは「結果」に対して「原因」が及ぼす影響のことであるが、
この定義からして、原因と結果の間に成り立つ相対的な関係を表す概念に過ぎないことがわかる。
あらゆる他の概念と同様に、力という概念の基礎となっているのは、
結局、客観世界の認識なのである。
しかし、私が求めているのは、相対的ではなく、直接的な表象による世界の描写である。
世界は直接的な表象=「物自体」によって描写されるべきである。
それは、自然のなかで前進し作用しているすべての力の本質であるところの「意志」である。
もちろんこれは人間の意志と本質的に同一のものだから、こう呼ぶのである。
「意志」こそが、世界のパーツである「物自体」なのだ。
「力」という概念は、二次的なものとして退けるべきである。
なぜなら、「力」という概念を「意志」という概念に還元することで、
一つの未知の概念を既知の直観に還元したからである。
ストア派の目指す幸福とは、「苦痛を避けて生きること」である。
そのため、ストアの賢者が有徳的な振る舞いをしたとしても、
それは目的に対する手段であり、単なる副作用に過ぎない。
ストアの開祖ゼノンはこのような生き方を「一致して生きる」と呼んだ。
しかし、「苦しむことなく生きること」には矛盾が内在している。
ストア派の教えには、苦痛を避けるための自殺さえ織り込まれているのである。
ストア派での平静・知足(足るを知ること)は人間の本性と相反したものであるから、
我々はそのような概念を具体的に思い描くことさえ出来ない。
そのため、ストアの賢者の生き方は生気を感じさせない模型人間のように感じられる。