§71 無の世界への到達

この章の最後の部分には必ず非難が投げかけられるであろう。しかし、その非難は本質的で重要なものであり、むしろ受けて立とうと思う。

その非難とは、こうである。

「我々が意志を否定すれば、我々は無になってしまうではないか!」と。

しかし、もともと無とは相対的な概念なのではないだろうか?有と無とはお互いに相対的な概念であって、絶対的な「無」という概念などないのではなかろうか?(この部分は、老子第2章『有と無と相成す』を想起させる)

一般的に人が「有」だと考えているのは、表面的な、表象としての世界に過ぎない。しかし、その「鏡」は、我々が意志を否定した瞬間、砕け散ってしまうだろう。しかし、意志を否定した我々にとっては、「無」によって保障された安静こそが「有」であり、意志の肯定の世界に戻ることは、その安静が失われ「無」に帰す恐ろしいことなのである。

その安静の聖境は忘我とも、恍惚とも、有頂天とも、悟りを開くとも、神と合一するとも言われてきた。(この部分は、老子21章『道の物たる、ただ恍、ただ惚』を想起させる)

真実は、こういうことである。

我々がこれほどまでに無を嫌悪していること自体が、我々が生きんとする意志であることの証拠なのである。

我々は聖者の伝記を読むことで、心を慰めるべきである。なぜなら、聖者たちの存在(§68-3 聖者たち)こそが、この新しい「有」の世界の存在証明なのだから。インド人たちでさえ、無を嫌悪して、「ブラフマンへの参入」「ニルヴァーナへの帰依」などと言った言葉を使うが、もっと無を受け入れるべきなのである。

我々が意志を転換し終えた暁には、この太陽や銀河こそが無(§27-3 虚無なる宇宙)であり、静寂こそが真の世界となることだろう。

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