§15 人間が思索出来ない理由

ごくわずかの例外を除いた全ての人間は、もともと思索向きには出来ていない。ほぼ全ての人間は思索できないのだ。

第一に、全ての人間はある最も大切な問題を故意に無視するか、迷信的な説で妥協している。その問題とは、人間の存在そのものである。人間は、なぜこのように苦悩に満ちた、それでいて夢のような存在なのだろうか?思索する人は、一度この問題に目覚めれば、他の全ての問題はどうでも良くなってしまう。逆に大多数の人間の興味の対象は今日をどうやり過ごすかだけで、無為な繰り返しの日々を送り、人生の意味については前進することはない。

第二に、人間の認識能力はもともと生存のための道具にすぎない(主著§27)。人間は貧弱な動物である。人間の耳は、騒音を遮断するようには出来ておらず施策は中断される。それは絶えず、接近者の足音を告げ知らせる。

(終)

§13+14 思索と他者との関係

思想家には、自分のために思索するタイプと、他者に思想家と思われたい一心で思索するタイプがいる。前者は思索そのもののうちに、後者は名声のうちに幸福を求める。真の思想家は、前者のみである。

思想家自身のための思想こそが、人生の本当の問題に迫るものであって、書きとめられたのちも、他人の心に響く力をもつ。

§10 権威主義について

思索の出来ない人間は権威者の言葉をしばしば引用するだけでなく、引用することに喜びさえ覚えるようだ。セネカの言うとおり、

何人も判断するよりはむしろ信じることを願う

からである。彼らはおのおの違った権威を武器に携えて、争いあう。彼らは思考不能・判断不能のゾンビのようであり、たとえ論破されても不死身である。

このような戦いに巻き込まれてはいけない。

§8b+9 断定口調について

真の思想家は、断定口調をとることが特徴である。それには理由がある。

彼の思想は、彼にとっては当然のことになっているのだ。なぜなら、その思想の中の判断は、全て彼が下したものだからだ。この意味で、真の思想家は君主に酷似している。

ならば、彼の思想や権威に捕われた追従者は、法に服従する民衆に近い。彼らは思想を真に理解していないから、断定口調をとれるはずもない。

§7 思索の難しさ

思索の意志があっても、気分が乗らなければ思索は出来ないのが思索の難しい点である。さらに、気分が乗っても、毎回異なる角度から同じ問題にイチから取り組むことになってしまう。

しかし、その繰り返しによって問題が分割されたり、以前には気づかなかった点に気がついたりして、決意が熟成するのである。思索は、このようなゆるやかなプロセスである。

だから、思索の湧出が途絶えたときには読書をしても良いが、決して、思索のタイミングが来たときにそれを逃してはならない。思想家の態度は真剣である。もし多読に慣れてしまえば、思索すべき事柄を忘却し、他人の踏み固めた道を行く安易さに慣れきってしまうだろう。多読は慎むべきである。

§6 知識の虚しさ

例えば、旅行案内書を何冊も読んで、その土地に関する知識をたくさん得れば、その土地について話すことはたくさん出来るようになるだろう。しかしこういう人は、実は何も本当には知らないのである。

生涯思索する人は、いわばその土地に昔から住んでいる人で、我が家のように精通している。

§5 洞察力

読書はつぎはぎの思想を生じさせ、精神をさらに混乱させる。詰め込み過ぎの精神は洞察力を全て奪われている。

これは、一般に思慮深いと思われている学者達が、実は常識や正しい判断力を一切備えていないことからも、明らかだろう。

思想家が大量の知識を有機的に結合できるのは、パイプオルガンの基礎低音のように、膨大な知識を通奏する壮大な洞察力があるからだ。この洞察力は、膨大な知識を消化し、自らに同化し、自分の思想を益々強大にしていく。