なぜ、芸術は科学によって成されえないのか。
悟性による認識すなわち直観を理性により抽象化したものが概念である。概念の再利用性を極致まで高めたものが科学である。
しかし、抽象化の代償として、概念は直観的なものの微細な変化形態を捉えることが出来ないのである。
そのため、悟性と理性の有利な場面は以下のように異なってしまうのである。
§12における場面の分類:
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なぜ、芸術は科学によって成されえないのか。
悟性による認識すなわち直観を理性により抽象化したものが概念である。概念の再利用性を極致まで高めたものが科学である。
しかし、抽象化の代償として、概念は直観的なものの微細な変化形態を捉えることが出来ないのである。
そのため、悟性と理性の有利な場面は以下のように異なってしまうのである。
§12における場面の分類:
知と対立するものは情である。
情は理性によって形成された概念ではないものであり、直観的な表象である。
学生が他のすべての人を「俗物」と呼ぶがごときは、「俗物」という渾然と交じり合ったものを直観しているに過ぎず、「情」である。
すなわち、明瞭な抽象的概念ではないあらゆる意識の変化形態が情である。
「知る」とは、悟性が直観した表象を、理性の機能により概念のなかに固定することである。
「知」と「科学」は人間の長所だが、その確実性は、概念が再現可能であることによる。
だから「知る」とは、ある概念を認識し、自由自在に再現しうるまでに精神の力のうちにおさめることなのだ。
これは人間のみが可能なことである。意識がある(=表象を精神のなかで再現することが出来る)動物も存在するし、記憶力に長けた(=概念を記憶できる)動物も存在するが、概念を形成する理性の力が無いので、彼らは本当の意味で「知る」ことは出来ない。
理性の概念形成以外の能力は、概念間の論理操作を行う能力のみである。
概念は、表象の表象である。
表象が直観されるものであるのに対し、概念、表象の表象は、決して直観されることは無い。
概念の本質は、関係(Relation)である。
と分類することが出来る。
概念は表象の表象であるが、「複数の表象」の表象である場合、普遍性を持つと形容する。こうした概念は「範囲」を持つため、その範囲を集合論的に議論し、概念の特殊化を集合の包含と同一視することが出来る。
しかし、概念の形成する論理学に興味は無い。美学の研究により芸術家になったものは一人も無く、倫理学の研究により人が高貴になったためしも無いからだ。同様に、正しい推論をするためにも論理学は必要無い。
すべての詭弁は、概念が表象の表象であることにより説明できる。章末に、「旅行する」という概念を「善」であるとも「悪」であるとも結論付けるための詭弁を、ベン図の連鎖として図解してみた。
詭弁を逃れて確実な判断を行うためには何を基礎とすればよいかを§10で論じる。
抽象的な表象の世界は、概念の世界である。
概念の世界には、「真理」と「誤謬」が存在する。真理は尊く、誤謬は毒である。それでも、真理がひとたび獲得されたなら、それは誤謬を打ち払う。
人間は理性による反省(Relflextion)により、概念の世界を捉える。それゆえに、
のである。
ゆえに、何かを欲するのは動物と人間で同じであっても、人間は
目的を達成する。
こうした多様な人間行動のすべてを厳密にひとつの簡単な機能に還元することが出来る。
すなわち、理性の持つ機能はただ一つ、
「概念の形成」
これである。
ここでは、単純なYES/NOの問いかけ10個を通して、
ショーペンハウアーの思想についてのおおまかなイメージを
伝えたいと思います。
1. 唯物論か?唯心論か?
→ ショーペンハウアーの哲学は唯心論です。
彼は唯物論が間違っていることの証明を試みています。
本質は「認識のパラドックス」を用いたものですが、
面白い論理なので、頭をひねってみるのも悪くないでしょう。
2. 極端か?中道か?
→ ショーペンハウアーの哲学は非常に極端です。
徹底した女性嫌いや厭世観にも彼の極端さが現れていると言えるでしょう。
反面、彼はこの素質によって、疑いようのない「真理」からの演繹により
誰よりも遠くまで到達し得たとも言えるでしょう。
ショーペンハウアーの極端さは、彼が非常に純粋な人であったことの
裏返しともとれます。
3. ポジティブか?ネガティブか?
→ 語る内容によってどちらとも取れます。
世界の構造にまつわる哲学としては、非常に分かりやすく
混沌とした世界の構造を照らし出す論調は、希望に満ち溢れたものです。
反面、人間社会の本質や、 人生の意義については、
非常にネガティブなものと言えると思います。
4. 秩序を好んだか、混沌を好んだか?
ショーペンハウアーは、秩序を好みました。
彼によれば、概念とは明瞭に抽象化され、理性により固定化された「表象の表象」でした。彼は誤謬を憎み、その源泉たる「明瞭でない一切のもの」を憎んだのでした。