§6 認識=知覚+悟性

主観による客観の認識は、2ステップに分かれている。

ステップ1は、外からの影響によって感覚器官が変化をうけて、知覚が起こった状態である。
ステップ2は、悟性によってそれらの知覚間の因果性が直感された状態である。悟性とは、原因と結果のつながりを直覚する力である。

まず知覚があり、近くに対して悟性が適用されて初めて認識となる。こうして主観によって客観が認識される。

あらゆる動物が悟性を持っていて、このことは、動物が刺激に反応して動機を持って行動することから分かる。
悟性の働きは、理性とは全く別のもので、実際、動物の多くは理性を持たないが、悟性は持っている。理性とは、抽象的な概念の抽出と、その論理的な組み立てを行う力であり、人間だけが持っている。

悟性はあらゆる人間と動物にあるが、その鋭利さには個体差がある。
もっとも単純な悟性は、結果として受けた刺激ではなく、自然に原因となった物質を特定し、それを認識するような場合である。例えばまぶしいとき、人間は「まぶしさ(刺激)」ではなく、「光(原因)」を認識する。
高級な悟性は、もっと込み入った自然法則を認識するときに表れる。
例えば、私が精神病院で出会ったある白痴の少年は、「反射」を認識できず、ガラス玉に移るめまぐるしく変化する像にいつまでも驚いていた。かと思えば、橋を渡る前に直観的に、足を止めてわたるのを拒んだ象の例がある。このように、込み入った自然法則を直観的に認識できる高級な悟性が存在する。

私は、悟性が著しく鈍い場合を「愚鈍」と名づけた。

また、愚鈍でない場合にも、悟性が働かない場合がある。それは悟性が「仮象」に欺かれた場合である。これは、同一の近くに対して2つの原因が考えられるが、よりまれなものが本当の原因であった場合に起こる。
仮象の例は光の屈折である。例えば水中にある物体は実際よりも近くにあるように見えるが、この映像と全く同じ映像を、水槽に水を満たさずに得ることが出来る。日常生活において、水中の物体はまれであるために、悟性は仮象に欺かれ、物体までの距離を見誤ってしまうのである。

人間において悟性は、単に動物より高級だというわけではなく、理性と同時に、相補的に働いている。
この協調の例は、たき火の例である。オランウータンは非常に悟性が怜悧な動物である。この悟性のおかげで、オランウータンは、たき火があると近づいてきて、暖をとることが出来る。つまり、火が原因となって体温が上昇するという因果性を直観するのである。
その反面、オランウータンはたき火は木を継ぎ足さなければ消えてしまうことが理解できず、たき火を持続させることが出来ない。これは、たき火が木を燃料として燃え続ける仕組みの理解に、概念の操作が必要だからである。概念の操作には、理性が必要であるが、オランウータンは人間と異なりこれを持っていないので、たき火を持続させることが出来ないのである。

§52-2 聖カエキリア

人生は苦痛に満ちている。

イデアを見るときだけが、人生のこのうえなく愉しい一面であり、またそれだけが人生の唯一の無邪気な一面である。

ただし、イデアを見ることが出来るのは、天才芸術家のみである。

しかし彼もまた、天才であり他の人々より優れているがゆえに、孤高の苦しみを味わうことになる。彼は人々の中では異質であり、誰も分かり合えるものがいない。

すると、一層イデアを見ること – 世界の”意志”の純粋な認識のみが、彼の人生の目的となっていく。しかし、それは一瞬苦悩を忘れさせてはくれても、人生という不断の苦悩の前には、永久の解脱にはなりえない。

やがて彼は芸術によって高められた力を基にして、厳粛に、諦念をもって、「意志の寂滅」を実現することになるだろう。

ラファエロによるこの聖カエキリアの肖像は、芸術家から聖者への移行の象徴である。

§35 歴史と意志

意志とイデア、意志の現象は別々のものである。

イデアの中に、「生(せい)への意志」はその最も完全な客観性を備えている。
世界に起こるあらゆる出来事は「生への意志」が客観化されたものに過ぎない。
歴史は進歩しているのではなく、「生への意志」の衝動をただ繰り返しているだけなのだ。
人々は時代が新しいものを生み出しているとか、歴史は計画と発展を内蔵して動いているとか
考えたいようだが、こういう人にはイデアと現象とを区別することは出来ないのである。
(ヘーゲルへの皮肉)

意志は生の衝動という力の湧き出る泉である。
この泉が、歴史を繰り返させている。

今仮に、大地の霊が立ち現れ、我々に、極めて優秀な個人が、
その力を発揮し世界を変えようとした直前に、偶然によって滅ぼされてしまった実例を
いくつか見せてくれたとしよう。

また、世界を変えたであろう極めて重要な事件が、
無意味な不慮の事故によって妨げられてしまった実例を
いくつか見せてくれたとしよう。

このとき、我々は失われた財宝を嘆くであろうが、大地の霊は微笑してこう囁くであろう。

「生の衝動は時間と空間のように果てのない汲み尽くせないものである。※
個体の力は、意志の湧き出す生の衝動のひとつの、目に見える形態に過ぎない。
意志の領域では、決して減ることのない無限性が、あらゆる再生の余地を残して門戸を開いている。
個々の事件の成否などはどうでもよいのだ。

あなたにとっての唯一の問題は、あなたが意志の存在に気付くか、
そしてその肯定と否定のどちらを選ぶのかということだけ
なのだ。」

と。

※このくだりから分かるとおり、ショーペンハウアーの意志とは
老子の「玄牝(谷神)」に非常に近いものである。

§34 純粋認識

人がイデアを認識するためには、認識を「意志への奉仕」から解放する必要がある。
これにより、主観は個別の物に対する認識をやめ、個別の物同士の関係性に対する認識をやめ、抽象的な思考をやめるからである。

この状態は忘我 – 観照する行為と主観の同化の状態であり、時間や因果関係といった「根拠の原理」を認識できないため、どこ?いつ?なぜ?といったことに邪魔されることなく、ひたすらなに?を認識することに集中した状態である。

この状態は主観が客観を映し出す単なる鏡である状態である。あたかも対象だけが存在し、それを認識するものはいないかのように、唯一つの直感像だけが意識を占有した状態である。この直感像がイデアである。このように、人はイデアを認識する。

一方、この状態では、認識行為と主観は同化しているから、イデアは意志が直観されたものでもある。この状態にある、没入した主観は、もはや時間も個体性も苦痛も失っている。この状態の主観を、純粋認識主観と呼ぶ。

私は第一部で世界は表象の集合であるといった。純粋認識主観にとって、「表象としての世界」はイデア(“物自体”)である。さらに、純粋認識主観はこの表象を「自分の本質の一つの偶有性」ぐらいに感じている。この心境を、バイロンをはじめとする多くの芸術家が歌ってきた。バイロンは、「山も波も空も私の一部」と歌っている。