§1-1 人間の三つの根本規定

人間の幸福度の差は、3つの根本規定に帰着できる。それは次の3つである。

  1. 人のあり方、すなわち人品、人柄、人物。
  2. 人の有するもの、すなわち所有物。
  3. 人の印象の与え方、すなわち他人にどういう印象をいだかれるか。

Human

(1)は自然が設けたもの、(2)と(3)は人間が設けたものである。

(1)が、単に人間の設けた(2)と(3)による影響よりも、はるかに本質的・根本的であることは、想像がつくはずである。例えば、人のあり方(1)のうちには、内心の快不快が直接宿っている。これに反して外部にあるいっさいのものは、間接的に内心の快不快に影響を及ぼすにすぎない。

幸福論序文 幸福な生活とは何か

幸福な生活とは何かといえば、主観的に、生きていないよりは断然ましだと言えるような生活のことである。

われわれは幸福な生活を求めて生きているのであって、ただ単に死の恐怖により生き永らえているのではない。しかし、人生がこういった幸福な生活に合致することがありうるかどうかということには、私の哲学はと答えている。

したがって、幸福論という言葉そのものがバナナの叩き売り式の美辞麗句に過ぎないのであり、この論述は妥協の産物である。この本の内容も、古代の賢者の言葉を繰り返し述べたものに過ぎない。

目次:

§1-1 人間の三つの根本規定

§1-2 精神的な享楽の能力

§1-3 内面の貧困

§2-1 朗らかさ

§2-2 苦痛と退屈

§2-3 俗物(フィリステル/Philister)

§2-4 最も幸福な内的生活

§3-1 海水

§4-1 人の与える印象

§4-2 名誉欲

§4-3 虚栄心

§4-4 誇り

§4-5 3つの名誉

§29 意志の最終目的/世界は盲目的な意志である

この世界は、意志であり、そして同時に、表象であることがこの章までで明らかになったことと思う。

さらに、我々はおのれ自身も意志であることを知った。同時に、おのれ自身が認識出来る世界は、表象としてのみ現実的な存在を有していることを知った。

特別に、いまのうちに論究しておきたい問いがある。
意志はなにかをしようとする意欲、目標をそなえている。
してみると、意志は、いったい最終的には何を欲しているのか?

根拠の原理は現象にだけ及ぶのであって、そもそも物自体=意志には及ばない。動機付けの法則も、こうした根拠の原理が形をなしたものである。意志は無根拠である。

どの人間も、つねに目的と動機とをそなえ、それに従って自分の行動を導き、自分の個々の行動について常時、弁明することを心得ているのに、しかしいったん彼に、そもそも何故なにかを意志しているのかと問うたなら、彼はなんの答えももたないだろう。むしろ質問自体が、彼には馬鹿げたものに思われるだろう。意志がそもそもなにかを意志するのは、当り前なことだからである。意志はただ、その個々の現象においてのみ、動機によるこまかな規定を必要としているだけである。

人間の努力や願望もこれと同じことである。

努力や願望を実現することは、意欲の最終の目標であるようにいつでもわれわれは信じこまされているが、努力や願望はいったん達成されてしまうと、はじめの努力や願望とはもはや似ても似つかぬものに見えてくるため、あれは一時の錯覚であったとして脇へよけられてしまうものである。

まだなにか願望すべきもの、努力すべきものが残っている間は十分に幸福でいられるのに、移り変りが停滞すると、この停滞は生命を硬化させる怖ろしい退屈、死にたい思いにさせるほどの憂鬱となってあらわれるのである。

意志は、自分がそもそも何を欲しているかということをけっして知らない。総体としての意欲は目的をもっておらず、意欲が存在していること自体には意味が無い。ただ、

世界は盲目的な意志である

のみである。

そして動物の中で人間にのみ、この意志を否定出来る可能性が残されている。

§26 イデアの対立、因果性による共存

イデアとは、意志の客観化の段階、一定の固定したそれぞれの段階のことである。
イデアには低位のイデアと高位のイデアがあり、段階的である。

意志の客観化のもっとも低い段階として現われるのは 、重力や不可入性 、剛性、流動性、弾性、電気、磁気、各種の化学的性質といった諸力である。 意志の客体性の高い段階になると、個性がかなりきわ立って現われる。 ことに人間の場合に、個性は、性格のいちじるしい違いとして現われる。 動物にあってはこの個性的な性格は概して欠けている。 植物になると、土壌や気候の良し悪しといった外的な影響と以外は、個体としての独自性をまったくそなえていないものとなる。 結晶は樹木とよく似ていて、もろもろの小さな植物を一つにあつめた組織的凝集体である。 無機的自然界においては結晶以外には、個性的な性格という痕跡をとどめた個体そのものは見出されない。

われわれはこのような段階のひとつひとつを、プラトンの言う意味でのイデアと名づけている。
しかし、同一の物質の上に、各イデアが同時に存在できるわけではない。一つの物体を時間的に追跡していくと、次々に現象を変えていく。例えば鉄の分銅は重力と不可入性を利用して機械を動かす。しかし分銅に磁石が近づけば、磁力は重力に打ち勝ち、機械は止まる。分銅を亜鉛版の上に移動し、酸性溶液を流し込めば、ガルバーニ電流が生じる。温度を上げて純粋な酸素を吹き付ければ、機械全体がたちまち燃え上がる。燃焼によって生じた金属カルキに酸を結合させれば、結晶が生まれる。やがて結晶は風化し、他の元素と混ざり、そこから養分を受けて植物が生育する。

永遠のイデアのすべての現象か同一の物質に頼っていればこそ、現象の登場・退場規則か成り立たざるを得ないのである。 同一物質における相対立したイデアの共存をひとえに可能にしているのは時間の差である。 また相対立したイデアのもとでも同一物質は不変であることを可能にしているのは空間である。こうしたことの一般的な可能性か因果性もしくは生成にほかならない。 わたしが物質とは徹頭徹尾、因果性であるとかつて述べておいたのもそのためである。 因果の法則は、自然の諸力のいろいろな現象か、時間や空間や物質をたかいに分け合って所有するときに規準となる限界を定めるのである。

自然力はいつでも、自分が出現して、一定の物質を自分で占領し、これまでその物質を支配していた諸力を追い払ってしまうことができる状況の到来を、いわば待ち焦れているようにみえる。 マルブランシュはその著『真理の探求』のなかで、ことに第六巻第二部第三章と、第三章のうしろに付録として加えた「解説」のなかで、この「機会因説」を述べ立てている。 自然界の原因は、例の単一であって分割することのできない意志が現象するための、チャンスやきっかけを与えるにすぎないというのだ。すべての原因は機会因である。現象の出現点を定めるのかもぱや原因や刺戟ではなく、動機であるような場合、つまり動物や人間の行動においても、事情はまったく同じであるといえる。動機か規定するのは人間の性格ではなしに、性格の単なる現象、すなわち行為にすぎないのだ。性格は意志の直接的な現象であるから、無根拠である。動機が規定するのは彼の人生航路の外的な形態である。その内面的な意義や実質内容ではない。

§27-5 闘争のための道具(認識/悟性/理性)

各イデアにとっての闘争のための道具として、認識が誕生した。

植物界や、運行や発生や成長といった植物的な動物現象では、無機物界と同様、闘争を呼び起こすのは刺戟である。
しかし、動物が多様化し、相互に邪魔し合うようになると、単なる刺戟によっては十分な食糧を得られなくなった。
そこで刺戟ではなく動機に基づく運動と、それを可能とする認識能力が必要となった。

動物において飢餓衝動が消化器官として現象したように、認識は脳髄や神経節といった器官として現われた。
認識という道具が現われるとともに、表象としての世界、すなわち客観と主観、時間、空間、数多性、因果性に支配された世界が、動物の前にいっきに成立した。
そうはいっても、動物がそなえているのは単に直観的な表象に過ぎず、まだ概念や反省をそなえているわけではない。
この認識能力が、悟性である。

人間の場合、動物において生じた悟性認識だけではもはや十分とはいえない。
悟性は感覚からデータの提供を受けるが、それだけではただ現在に縛りつけられた単なる直観しか生まれてはこないからである。
未来と過去の展望を可能にするには、直観的認識に対して概念の形成能力と反省能力がつけ加わらなければならなかった。
この認識能力が理性である。
(しかし、すべてに取って代わるはずの熟慮が、逆に不確実性や誤謬の可能性も生むこととなった。これは無機界における確実性と対照的である。)

このように認識の起源をただせば、もともとは意志そのものから誕生しており、認識が意志に奉仕し意志の目的を実現するためのものであることがわかる。

ごく少数の人間だけが認識を意志への奉仕から解放することができる。これは第三巻のテーマである。

また、その中でもさらに少数の人間だけが、意志の否定へ到達できる。これは第四巻のテーマである。

§27-4 無機的な自然界における盲目の衝動

まだいかなる化学的差異も発生していないほど遠いところまで原因と結果の鎖をさかのぼって考えて、無機的な自然界について考えよう。そのような世界の意志の客観化を決定づけるのは、牽引力と反撥力の間の闘争である。

牽引力はは重力のこと、反撥力は物体の不可入性のことである。牽引力におけるこの休みのない衝迫、反撥力におけるこの休みのない抵抗は、最下位の段階における意志の客体性である。

最下位の段階においては、意志が盲目の衝動として、暗鬱で朦朧とした騒乱として立ち現われている。このような盲目の衝動は直接認識することのできない相手(表象ではなく意志)である。無機的な自然界においては、あらゆる根源的諸力において、意志はこのような盲目の衝動として現象する。

§27-3 虚無なる宇宙

各天体の起源の状態は静止状態ではなく、無限の空間に向かって休息も目標もなくひたすら前進する運動であったと考えられる。惑星公転における遠心力は、カントとラプラスの仮説によれば、中心となる天体が回転していたときの残余の力である。かつて31の惑星を生み出した太陽は今でも回転し、同時に無限の空間の中を飛び去っているが、われわれには見えないもっと大きな中心となる天体があって、そのまわりを巡っているのかもしれない。

このように、すべての恒星が全般的に移動してはいるが、この移動は無限の空間の中ではまったく意味をなさない。
すべての恒星のこのような移動は、なんの目標ももたない努力のようである。この事実は虚無の表現となり、一個の究極目的の欠落の表現となっている。
しかし、意志が現象のうちに努力するそのあらゆる姿が、無目的で虚無なものなのである。

無限の空間と無限の時間とが、意志の全現象の普遍的本質的な形式である理由は、虚無、究極目的の欠落が、すべての現象のうちに認められるからである。

§27-2 有機体におけるイデアの闘争

生物は原因論ではなく形態学で語られる。
形態学は有機的な自然界にみられる形態を数えあげ、比較し、秩序づける学問であって、原因論ではない。

原因論が根源諸力を否定し去り、たった一つの力に還元しようとすれば、原因論は誤謬を与える。
デカルトら唯物論者や、メッケルやラマルクなど現代の生理学者は、あらゆる生理的作用を電気、化学、機械的現象に還元しようと考え、誤謬に陥った。

ある範囲のうちでは、物理的ならびに化学的な説明の仕方を有機体に適用するのは許されてよいし、また便利なことでもあるのだが、その範囲とはいったいどこまでだろうか。

原因論の誤謬が示している通り、意志の客観性の高位の段階を低位の段階に還元することは出来ない。
しかし、高位の段階も低位の段階も、一にして全なる意志の客観化ではあるから、類似点を持つ。このような類似点を、根本類型と呼ぶ。
根本類型という考え方は、フランスでの動物学的分類の指導原理となった。
無機的な力である電気・磁気・重力の類似性も、根本類型である(もちろん、電気を重力に還元してはいけない)。
また、シェリング哲学で特に注目された根本類型は、両極性であった。

意志の現象のうちの若干数は、その客観化の低位の段階、つまり無機的な領域においては、互いに葛藤し合い、それぞれか目前の物質を占領しようとすることがある。
この闘争から、一つのより高位のイデアの現象が立ち現われ、今まであった不完全なイデアをことごとく圧倒してしまう。
しかし、高位のイデアは自分のうちに今までの不完全なイデアの類似物を従属的な仕方で存立させておく。これにより、根本類型が成り立つ。
イデアはいろいろあっても現象する意志は一つであることおよび意志はだんだんと高度の客観化をめざして努力すると考えると、このことが説明できる。

例えば骨が固くなることには、無機的な結晶化の現象が見られる。
これは、生物という高位のイデアと、結晶化という低位のイデアの闘争状態である。
有機体以外の、単に化学的な力だけでは、このような体液をつくり出すことはないわけで、化学的な力は、動物のより高いイデアによって圧倒されている。

§27-1 原因論と哲学の両立

原因論のなすべきは

  • 現象の原因となる力
  • 現象が生じるための諸状況

を探し出すことである。現象の相違が原因の相違に由来するのか、諸状況の相違に由来するのかは判断が難しい。

意志は客観化すると、表象となる。これが現象である。
意志自体は無根拠であるが、客観化によって生じた表象は、原因をもつ。
例えば、意志の現象であるいかなる運動も、時間的、空間的、個別的な現象として説明することかできるし、原因をもつ。
これは石の場合には機械的な原因であり、人間の場合には動機である。

それでは、原因によって現象は説明できたことになるだろうか。
そうではなく、この説明が大前提としているものがある。現象全般に共通する本質、普遍的な自然力である。
普遍的な自然力、つまり意志には存在の根拠がないために、原因論的な説明は行きづまり、物理学においてはこれは「隠れた特性」のままでありつづける。

自然の原因論と自然の哲学とは相互にけっして妨げ合うことはなく両立し、同一の対象を異なった観点から眺めるものである。
自然の哲学は原因論を否定しない。
原因と結果とを繋ぐ鎖が根源諸力にまでさかのぼっていくのは、根源諸力が鎖の最初の環であるからではない。
原因と結果とを繋ぐ鎖の全ての輪が根源諸力の現象である。
原因論つまり物理学が完成すれば、無機的自然界に未知の力はなくなり、自然法則に従って証明されない結果もなくなるが、その自然法則はいまだ根源諸力の現象である。

§25 意志は一にして全なるもの

「空間」、「時間」、「因果性」は、数多性を可能にする。

しかし、それらは意志の客観性の持つ数多性に過ぎない。

意志は数多性をもたず、ただ1つであるもの、そして、宇宙の全ての背後にあるものである。

なぜなら、宇宙の全ては表象であり、それは意志の客観化に過ぎないからである。

例えば、百万本の柏の木は、意志が空間的時間的に数多性をもって客観化したものに過ぎない。
それらは表象であり、意志の見地から見れば、全く意義を持たない。(“意志に触れていない”)

意志は「空間」、「時間」、「因果性」による制約を受けない、一にして全なるものである。

その意味では、意志を研究することは、一本の柏の木を成り立たせる力を研究することである。

何か一つのものの研究を、意志の現象の見地で極めることで、全宇宙を成り立たせている意志に対する理解もまた深まるはずである。
(第三部では、それが芸術の意義である、という風につながっていく。)