§52-1 音楽

音楽は世界に存在するイデアの再現ではない。音楽は人間の最奥に語りかける普遍的な言語である。音楽は世界を再現しているのだが、この直接的理解を抽象的に把握したものはいない。

私は長らく音楽にはまってきたが、ひとつの解明に辿り着いた。それは音楽がイデアの模写ではなく、世界の模写、すなわち意志の模写であるということである。

私はこのことを証明することは出来ない。この章は、しばしば音楽に耳を傾けながら聞いてもらいたい。

和声について

根音バスは、星の質量、すなわち無機的な自然界である。軽快で、消えて行くのも早い倍音は、星から産まれた全物質、個別的な現象界である。それらの中間にある充填声部は、イデアの系列に対応する。

和声進行が合法則的であるのは、これらのイデアに自由意志が無いからである。

旋律について

旋律は自由意志をもつ、人間界に対応する。音楽は感情と情熱の言語である。

旋律を編み出すのは天才の業である。これはインスピレーション、神の息吹と呼ばれる。この過程に概念は存在しない。旋律は、願望から満足へ、また願望へと振り子運動をする、人間の生活そのものである。(ドミナントモーション)

短調と長調について

リズムとの組み合わせにより、短調と長調は我々の感情を支配する。

オペラについて

音楽に肉と骨のころもを被せようとしてオペラは生まれた。もし音楽があまりに歌詞に引きずられると、音楽は自分のものでも無い言葉でおしゃべりをしようとあくせく骨折ることになる。ロッシーニのみがこういう間違いを犯さないことを綺麗に守れた。

冒頭で音楽は世界を模写していると言ったが、音楽と自然界とは、意志の異なった二つの表現なのである。だから、交響曲に感銘して浸り切っている人には、あたかも世界の全ての出来事が周りを通り過ぎてゆくように感じるが、正気に帰ってみれば、交響曲と今見えた事物との間になんの類似性も見出せないだろう。両者は一つの意志を、違う角度から眺めたものだからである。

概念と音楽は、個別の現象に対して普遍性を持つという点で一致しているが、概念が空虚な殻であるのに対して、音楽は現象のいっさいの形式に先立ちその奥にある核心である。概念は事物以後の普遍、音楽は事物以前の普遍、現実は事物の中の普遍である。

音楽は親しみの持てる楽園、永遠に近い天国として我々のそばを通り過ぎてゆく。音楽はいくら反復しても心地よい。文学であれば、反復記号は煩わしいだけだろう。

音楽は悟性を必要としない。音楽は結果から原因へさかのぼる必要がないからである。

こうして音楽を哲学で解明することが出来たなら、それは世界を哲学で解明出来たことと同じである。

§51-2 抒情詩と物語詩

大きく分けて二つの詩が、イデアの描写に長けている。

片方は抒情詩で、刹那の気分を捉えてそれを歌にしたもの。もう片方は物語詩である。

真の抒情詩を読めば、何百万人もの似た境遇に置かれてきた人々の感じてきた、同じ感情をいつでも呼び起こすことができる。

抒情詩の本質は、意欲と純粋認識との錯綜である。抒情詩では、最高の奇跡、つまり認識の主体と意欲の主体との一致が再現される。

優れた叙事詩は、特異な性格の人物と、得意な状況の組み合わせである。これは、素材こそ違うが、建築術のように、素材のイデアを際立たせる詩である。

抒情詩は青年が作り、叙事詩は老人が作るものである。

§50 寓意

寓意は概念を基に絵画に埋め込まれた仕掛けで、純粋に芸術を鑑賞できない人々の歓心を買うためのものである。(ただし、ヴィンケルマンの考えでは寓意こそが芸術の最高の目的である。ショーペンハウアーの哲学とは当然相容れない。)

寓意の中でも象徴は、芸術に全く寄与しない。例えば、十字架はキリストの象徴である。象徴は概念であり、芸術に寄与しない

寓意が許される唯一の芸術は、詩である。詩は概念を用いて鑑賞者を直観の世界に誘う。隠喩、直喩、例え話、寓意が詩の仕組みである。文学における優れた寓意はいくらでも例を挙げることが出来る。

§49 イデアと概念の差異

イデアと概念は共に数多性を持たないが、3つの点で異なるものだ。

まず概念は誰にでも伝わるが、イデアは天才にしか見えない。もしくは、芸術として伝わりやすく加工されたイデアしか伝わらない。その伝わり方だって、受け手の精神的な感受性に比例する。だから俗物は権威を傘に傑作を褒めそやしながら、内心あんな作品は駄作だと有罪判決を下したくてウズウズしていて、それでいて彼らには何も伝わっていないのだ。

次に、イデアは事前の単一性であり数多の表象を産むが、概念は事後の単一性として表象から産まれる。

最後に、イデアは有機体に似ていて、人間の中で新しい表象を産み展開していく。概念からは、新しい表象は得られない。だから、概念は実用的だが、芸術にとっては不毛である。

天才自身がイデアを消化する有機体である。これに反し、模倣者は概念として他人の作品を取り込む。概念は流行としてやって来る。流行を模倣すれば同時代の人の喝采を得られるが、後世の人の喝采を得られない。新しい精神を得ようとすれば、同時代の人の喝采を犠牲にしなければならない。

§48 歴史画・宗教画

人間の3種の美のうち、性格は歴史画において最も良く描写される。

芸術においては行動の内的な意義深さが、歴史においては外的な意義深さが重要であり、この両者は無関係である。

だから、単に歴史に取材して、イデアの伝達に失敗した作品は芸術ではない。学者のみがそうした作品を好む。

我らの起源はユダヤ人の歴史である。ユダヤ人の歴史から画題を採った作品は、不幸なことに殉教者や陰惨な事件が多くなってしまった。これらは本来画題としてはふさわしくない。とはいえ、本来のキリスト教絵画とこれらの作品は明確に区別されるべきである。

キリスト教精神に取材した、ラファエロやコレッジョの作品は、救世主の眼のうちに完全な認識の出現を表現した。これらの作品は意志を鎮める鎮静剤となっている。これが芸術の頂点であり、意志が自分で自分を廃棄する姿を描いている。

§47 裸身

古代の彫刻では裸体像が好まれる。これは、美しい身体の形は、軽装時に最も効果的に暗示されるからである。

同様に、思想豊かな美しい精神は、自然に、平明に自己を表現する。貧弱な精神は、遠回しで曖昧な、小難しげな言い回しで武装して、華麗ではあるが空漠としている。

§46 彫刻と悲鳴(ラオコーン論)

ラオコーンは神々に罰を受け、大蛇に絞め殺された。このような状況では悲鳴を上げざるをえないのに、ラオコーン像は悲鳴を上げていない。この問題は、ずっと議論されてきたが、我々の理論では単純だ。

芸術には各々限界がある。絵画や彫刻は美を損なわずには悲鳴を表現出来ないから、ラオコーン像は悲鳴を上げていないのである。

§45-2 人間の美しさ2 動作・性格

人間の美しさは

  1. 姿(種族の特徴)
  2. 動作
  3. 性格

に基づいている。

動作の美しさは、「優美さ」である。動作が意志の欲求を最短経路で淀みなく実現するときが、最も優美である。つまり動作の優美さとは合目的性である。逆に、動作が意志に一致しない場合、優美さを欠いている。動物の動作にも優美さがある。

芸術においては、1.姿の描写と3.性格の描写は両立せねばならない。1.に偏れば無意味なものになり、3.に偏ればカリカチュア(風刺画)になってしまう。例えば彫刻は1.の美を目指しているが、美は幾分かは3.性格によって変容されねばならない。

芸術においては、3.性格の描写は1.種族の特徴の描写を毀損してはならない。この例は、酔っぱらいのシレノスやサテュロスを醜悪に描きすぎて、人間とは思えないほどになってしまった場合である。

同様に、3.性格の描写は2.動作の優美さの描写も毀損してはならない。この例は、性格を表現するために不自然な姿勢や動作を取らせることにより、意志と不整合になってしまう場合である。

彫刻においては1.の美と2.の優美さに重点がある。これに対し、3.性格の描写には絵画に分がある。次章(§46 ラオコーン像)では、ラオコーンを描写した絵画では悲鳴を表現できるが、ラオコーンを描写した彫刻では悲鳴を表現できないことについて論じる。

§45-1 人間の美しさ1 人間の姿

最高位のイデアは人間である。専ら種族の特徴に基く動物の美とは異なり、人間の美しさは

  • 姿(種族の特徴)
  • 動作
  • 性格

に基づいている。

人体の各部は最高度に意志を客観化しながら、相互に秩序づけられ、全体に従属している。この稀にしかない条件の下で、低い段階のイデアを全て打ち負かし、物質を奪い取って凝集した結果が人体の美である。

芸術家は、経験に先立って人体の美を知っている。芸術家は、決して、模倣によって人体の美しさを表現するのではない。また、決して、多くの人間にバラバラに配分されている最も美しい部分を寄せ集めて人体の美しさを表現するのでもない。

本物の芸術家は、人間の美しさを並々ならぬ明澄さを持って認識し、かつて自分が見たこともない仕方で人間の美しさを描き出し、その描写においてはついに自然を凌ぐ。自然は人間のイデアを表現しようと努力しているが、天才は個体の中にイデアを認識することによって、自然の言葉を半分聞いただけでも自然を理解することができる。彼は認識したイデアを大理石に彫り付けて、「これこそお前の言いたいことだ!」と自然に叫び掛けるのである。そして、芸術を理解する人間の「そうだ、それであったのだ!」という声がこだまして反って来るであろう。

同様に、シェイクスピアの生み出すリアルな人物像が、彼の人生経験を忠実に再現したものだという推測はばかばかしいくらい間違っている。彼は先験的に人間の本質を認識し、彫刻のように詩文芸に刻みつけたのだ。

§44 造園・静物画・動物彫刻

造園芸術が植物の美と多様性に付け加えることは少ない。むしろ植物を題材とする芸術は、静物画が主である。

静物画の題材はつまらぬものであり、その感動は主に純粋認識状態そのものからくる(§42)。題材そのものが美の味わいをもたらしてくれるのは、動物画や動物彫刻である。古代の動物彫刻は今の時代まで伝わっている。

動物彫刻においては、美的満足の客観的側面が、主観的側面に対し決定的優位を勝ち得ている(§42)。動物のイデアは種族としての特徴に基く。植物の種族としての特徴は形態に限られるが、動物の種族としての特徴は形態・動作ともに表れている。しかし、性格を欠いているために、種族の特徴は個体を特定するほどではない。

動物を直接観察するのも良い。なぜなら動物は意志の客体化であり、すなわちイデアを認識することになるからである。