§4-3 虚栄心

虚栄心とは、自分に圧倒的な価値があるという「確信」を、他人の心中に呼び起こしてみたいという願いである。そうすれば自分も、自分自身に価値があると思えるのではないかという、密かな期待が伴っているのだろう。

要は他人の思惑によって自分の価値の認識を変化させようというわけで、この方法で「自分の価値に対する揺るぎなき確信」が得られないのは明白である。誇りも得られない。誇りは確信に基づいており、われわれに左右出来ないからだ。

虚栄心の強い方々に御忠告差し上げたいのは、どんな素晴らしい話がおできになるとしても、ずっと黙っておいでのほうが、他人の好評が得られるということである。

§4-2 名誉欲

「賢者でも名誉欲は捨て難い」と昔から言う。名誉欲の迷妄の本質は、自分にとって直接には存在していないもののために、自分にとって直接存在しているものを犠牲にしてしまうことである。名誉欲について次のことを知っておけば、この罠に陥ることは無い。

  • 名誉は他人の頭脳の中にしかないものだから結局間接的な価値である。
  • 他人の意見は大抵われわれに影響しないものである。
  • 名誉欲の強い人間は他人が自分を褒めるのを聞きたがるものだが、面と向かっては自分を褒める人間が、陰で自分の噂をするさまを聞いたら、癇癪を起こして病気になってしまうほどである。

結局名誉欲に囚われれば、心の安静と満足という、幸福の条件を自ら失うことになる。

§4-1 人の与える印象

猫は撫でてやると必ず喉を鳴らすが、人間も得意なことで褒められると、喜色満面になる。

人は他人の意見の奴隷であり、この喜びを過大評価しないよう、気を付ける必要がある。

人のあり方(1)と有するもの(2)に対して、人の与える印象(3)はわれわれにとって本当に存在するものではない。およそ人の頭には未熟さ、浅薄さ、偏狭さ、おびただしい誤謬が渦巻いており、どんな偉大な人物にも寄ってたかって非難を浴びせるものではないか。

§56 意志の肯定と否定

人間の生き方には二つの可能性がある。

ひとつは、意志である自分の意欲を、次々に満たして行く生き方。これが、意志の肯定である。

もう一つは、イデアの認識を鎮静剤とし、意欲することを自然と辞めてしまう生き方。これが、意志の否定である。

従って、前者の生き方で、意欲を満たしきることが出来るのかが問題になる。

宇宙は無目的である動物の世界は苦悩の方が多い。では人間の世界は、快楽が苦悩を補って余りあると言えるだろうか?

§55-2 概念の闘技場

人間には自由意志が無く、行動は必然である。その過程が動物と異なるのは、人間においては抽象的な概念を比較検討することにより、長期的なメリットなどが考慮された決断が下せる事である。

いわば、人間は概念の闘技場であるといえる。

人間は概念を利用することで生存を有利にしたが、逆に人間の最大の苦悩も概念から生まれることになった。

例えば死は概念であるし、人に指摘されて初めて苦悩が生じる場合などは、概念の伝達された場合である。精神的苦悩から逃れるために、肉体的苦悩を自ら選ぶことさえある。例えば、悩んでいる時に頭を掻きむしる行動がこれである。

§55-1 人間の自由意志の否定

現象界、すなわち表象としての世界は根拠の原理に支配された、必然の世界である。だから無機物や植物や動物の行動は常に必然的で、自由はない。人間行動も、動機に規定される面では自由は無い。

ただ、人間の認識は世界の完全な鏡であるから、意志による自由の余地が生まれる。

我々はカントに倣って、性格の自由な面すなわち意志を永遠不変な叡智的性格と呼び、性格の根拠の原理に支配された面を経験的性格と呼ぶ。

正確には、動機がある場合、意志が、つまり叡智的性格が決断し、行動するのだが、それを後から知性が認識し表象となったものが経験的性格である。

だから、地面に立てた棒が右か左に倒れようとしている時、重力がそれを決定した結果が経験的性格であり、棒を地面に立てると、右にも左のどちらにも倒れうる可能性が生じるという事実が叡智的性格である。

しかし、右にも左にも倒れる可能性が、自由があるように見えるのは見かけだけで、本当は平衡を失った瞬間に結果は決まっているのである。

叡智的性格は意志であり、時間の外にあるため、永遠に不変である。だから、知性と意志の闘争の結果ではあるといえ、その結果は結局必然に支配されている。

つまり、人間に無差別な意思決定が可能であるという主張は間違っている。デカルトやスピノザの主張がこれにあたる。

特に、人間はこんな人に成りたい、あんな人に成りたいと決心して変わることは不可能である。意志は自由意志ではなく、生の衝動である。人間は生の衝動であり、その性格は高次のイデアであり、自分自身を経験的性格として追認していくことしか出来ない。

§55-3 習得された性格

習得された性格を得るとは、自分を理解することである。経験的性格と叡智的性格は不変だが、自分についての明晰な理解を概念の形で結晶させることには二つの大事な利点がある。

ひとつは、何かを成し遂げることである。歳の市に行った子供のように、興味あるもの全てに引き寄せられてふらふらしていれば、何も成し遂げることは出来ない。自分の素養を知ることで初めて、人は他の全てを諦め、集中出来るのである。

ふたつめは、自分自身に対する不満から解放されることである。 それは、自分自身をわきまえず、誤った自信や思い上がり、欠点を変更可能だという不毛な希望を持つことから生まれるからである。

§54-1 死の恐怖

意志は盲目的な生の衝動であり、無機物や植物の栄養作用、生殖として現象している。

個体は現れては消えて行くが、この生の衝動は不滅であり、いかなる時間をも知らない。意志にとって個体の死はどうでも良いことで、種族の保存だけが関心事である。個体の誕生と死は、種族にとっては毎日の栄養摂取と排泄に過ぎない。

こう考えると、自分や友人の死も慰められるし、自分の死体をミイラにして保存するなんて、排泄物を保存するくらい滑稽なことに思われて来るだろう。

意志は個体性を持たないことに加え、現在という時間形式のみを持つ。過去や未来は、生成や消滅を繰り返す世界のみにある。

だから、現在というものに満足し続ける人がいたとしたら、彼は自分の生を無限とみなし、死の恐怖を覚えないであろう。逆に、生の苦悩という現在に耐えられない人がいたとしたら、自殺をしても、苦しみを逃れられないだろう。

§53 行為の哲学

最終章は行為の哲学である。ただし、我々のものを含め、行為の哲学は実践的になりえないことは注意するべきである。その人の行動を決めるのは概念ではなくて、その人の本質である。丁度、概念が芸術に寄与することが無いのと同じではないか?哲学で有徳者を作ろうとするのは、美学で芸術家を作ろうとするのと同様に不毛である。

また、私は総じてこのようにすべし、と言うことも言わない。そう言うことは子供に言うべきことで、自由意志をもつ成人に言うことではないからである。

行為という人間の本質で説明されるべきことを、歴史のような個別的なもので説明する態度も間違っている。

我々の目的は意志の哲学により行為を解釈説明することである。我々は、自己啓発や宇宙進化論には興味が無いのである。

ショーペンハウアー哲学の矛盾1

ショーペンハウアー哲学が矛盾しているということが、多くの哲学者から指摘されてきた。しかし、ほとんどの指摘はショーペンハウアー哲学への無理解から来ているといえる。

今回は、インド哲学のヴィヴェーカーナンダによる、以下の批判を例にとってみよう。

椅子を動かすのと同一の力が、心臓や肺臓やその他のものを動かしているが、それらは意志が原因ではない。力は、それが意識の段階に上るときにはじめて意志となるのだから、その前に意志と呼ぶのは間違いである。

ショーペンハウアーにおいて、意志は力を包括する概念であると定義されている。要は定義の問題なのである。そうした思考ゲームにおいて、意志が意識の段階に上がるかどうかは何の関係もない。単に二人の間で意志という言葉の定義が違うだけであり、お互いに否定しあう必要はない。

ショーペンハウアーを理解するには、ショーペンハウアーの定義に(無理に)従わないと正しく理解できないのが、ショーペンハウアーが誤解される原因の一つなのだろう。