この世界は、意志であり、そして同時に、表象であることがこの章までで明らかになったことと思う。
さらに、我々はおのれ自身も意志であることを知った。同時に、おのれ自身が認識出来る世界は、表象としてのみ現実的な存在を有していることを知った。
特別に、いまのうちに論究しておきたい問いがある。
意志はなにかをしようとする意欲、目標をそなえている。
してみると、意志は、いったい最終的には何を欲しているのか?
根拠の原理は現象にだけ及ぶのであって、そもそも物自体=意志には及ばない。動機付けの法則も、こうした根拠の原理が形をなしたものである。意志は無根拠である。
どの人間も、つねに目的と動機とをそなえ、それに従って自分の行動を導き、自分の個々の行動について常時、弁明することを心得ているのに、しかしいったん彼に、そもそも何故なにかを意志しているのかと問うたなら、彼はなんの答えももたないだろう。むしろ質問自体が、彼には馬鹿げたものに思われるだろう。意志がそもそもなにかを意志するのは、当り前なことだからである。意志はただ、その個々の現象においてのみ、動機によるこまかな規定を必要としているだけである。
- 重力は究極の目標をもたないまま、休むことなく努力している。
- 植物は芽から始めて、幹や葉を経て花や実となり、同じ現象をくりかえす。
- 生殖は、自然に対し種を維持し、同じ現象をくりかえす。
人間の努力や願望もこれと同じことである。
努力や願望を実現することは、意欲の最終の目標であるようにいつでもわれわれは信じこまされているが、努力や願望はいったん達成されてしまうと、はじめの努力や願望とはもはや似ても似つかぬものに見えてくるため、あれは一時の錯覚であったとして脇へよけられてしまうものである。
まだなにか願望すべきもの、努力すべきものが残っている間は十分に幸福でいられるのに、移り変りが停滞すると、この停滞は生命を硬化させる怖ろしい退屈、死にたい思いにさせるほどの憂鬱となってあらわれるのである。
意志は、自分がそもそも何を欲しているかということをけっして知らない。総体としての意欲は目的をもっておらず、意欲が存在していること自体には意味が無い。ただ、
世界は盲目的な意志である
のみである。
そして動物の中で人間にのみ、この意志を否定出来る可能性が残されている。