§58-2 退屈の排除

人生の活動には三つの極端がある。

  1. ラジュア=グナ 強烈な意欲と大きな情熱。偉大な人物に見られる
  2. サットヴァ=グナ 純粋認識によるイデアの認識。天才に見られる
  3. タマ=グナ 意志が眠りにつき、空虚で退屈な状態。

しかし、人はこれらのどれにもとどまることが出来ず、いや実際はどれかに近づくことすら滅多になく、3つの間をぐらつきながら転々とすることで小さな対象をがつがつと追い求める生を送っているのだ。

人は喜劇役者のように、欲望に突き動かされるままに、様々な苦労に満たされているが、苦労することには退屈を排除する力は無い。すると人間の精神は、迷信を生み出すようになった。そして、迷信と空想の中で精神力を浪費することで、退屈を避けるのである。

迷信は、生活のしやすい、インド、ギリシャ、ローマ、スペインなどの地域に多くみられる。

一生のほとんどを供え物、礼拝、願掛け、巡礼、聖像の飾りつけなどに空費していると、人生のいかなる幸運もこれら御本尊からの反応だと受け取られ、ついには錯覚の魅力によって、こういうものと交渉しているほうが現実のものと交渉するより面白くなってくる。救いと加護を求めているはずなのに、貴重な時間や精力を無駄に使ってしまい、救いはますます遠ざかってしまう。しかし、そのような人は、退屈の気晴らしが出来るという実に有難い御利益を賜っているのである。

§58-1 幸福

持続的な幸福はあり得ない。なぜかと言うと、幸福とは「苦痛が無いこと」だからである。

だから、幸福や目標を達成しても、享楽によっても、単に苦悩や願望から解放されただけである。むしろそこには退屈がやってくるのだ。

苦痛が積極的なのに対し、幸福は消極的である。だからこそ長続きする幸せなどというものはあり得ない。絶え間なく苦痛が生まれることは人生の本質だからである。

積極的な幸福が存在しないことは、どんな詩も劇も、幸福を得ようとして格闘し努力し戦闘するさまを描くだけで、永続的で円満な幸福それ自体を描くものではないことからもわかる。主人公が幸福を探り当てるや否や、幕を下ろしてしまうしか、文学にできることは無いのである。また永続的な幸福を描こうとした芸術、例えば田園詩、牧歌は、退屈である。

そもそも宇宙は空虚であり、全ては最終目標も無ければ終点も無い努力である。

§29 意志の最終目的/世界は盲目的な意志である

この世界は、意志であり、そして同時に、表象であることがこの章までで明らかになったことと思う。

さらに、我々はおのれ自身も意志であることを知った。同時に、おのれ自身が認識出来る世界は、表象としてのみ現実的な存在を有していることを知った。

特別に、いまのうちに論究しておきたい問いがある。
意志はなにかをしようとする意欲、目標をそなえている。
してみると、意志は、いったい最終的には何を欲しているのか?

根拠の原理は現象にだけ及ぶのであって、そもそも物自体=意志には及ばない。動機付けの法則も、こうした根拠の原理が形をなしたものである。意志は無根拠である。

どの人間も、つねに目的と動機とをそなえ、それに従って自分の行動を導き、自分の個々の行動について常時、弁明することを心得ているのに、しかしいったん彼に、そもそも何故なにかを意志しているのかと問うたなら、彼はなんの答えももたないだろう。むしろ質問自体が、彼には馬鹿げたものに思われるだろう。意志がそもそもなにかを意志するのは、当り前なことだからである。意志はただ、その個々の現象においてのみ、動機によるこまかな規定を必要としているだけである。

人間の努力や願望もこれと同じことである。

努力や願望を実現することは、意欲の最終の目標であるようにいつでもわれわれは信じこまされているが、努力や願望はいったん達成されてしまうと、はじめの努力や願望とはもはや似ても似つかぬものに見えてくるため、あれは一時の錯覚であったとして脇へよけられてしまうものである。

まだなにか願望すべきもの、努力すべきものが残っている間は十分に幸福でいられるのに、移り変りが停滞すると、この停滞は生命を硬化させる怖ろしい退屈、死にたい思いにさせるほどの憂鬱となってあらわれるのである。

意志は、自分がそもそも何を欲しているかということをけっして知らない。総体としての意欲は目的をもっておらず、意欲が存在していること自体には意味が無い。ただ、

世界は盲目的な意志である

のみである。

そして動物の中で人間にのみ、この意志を否定出来る可能性が残されている。