親の遺産を

親の遺産を受け継いだ人間は幸福である。

出典:

  • 幸福論第3章「人の有するものについて」
    『運命からの授かりものであり、初めて自分の時間と能力を自由に発揮できる』
    『この意味で、1000ターレルの年金と100000ターレルの年金の差異は少ない』
  • 同章
    『ただし、親譲りの財産が価値を発揮するのはこれを譲り受けた人間が高度な精神的能力を備えている場合のみである。』
    『いわば運命から二重の授かりものをしたのでなければ、その人間はごくつぶしの軽蔑すべき人間であるし、そうした人間は幸福にもならない。』

解説:

ショーペンハウアーの身も蓋もない名言。現代日本では『仕事を好きになる』とか『仕事で自己実現』という耳当たりの良い言葉で現実的な落としどころが模索されるが、金持ちであるショーペンハウアーはこれを一刀両断するのである。

幸せになるには

これまでの幸せを数えたら、あなたはすぐ幸せになれる。

出典:

解説:
この言葉を理解するには、ショーペンハウアー思想の「永遠の現在」という概念について解説が必要である。
意志は認識を欠いていて盲目なので、過去や未来の存在に気づかない。いや、本来意志としての世界には、過去や未来自体が存在しないとショーペンハウアーは説く。これが「永遠」と呼ばれる考え方である。プラトンの言葉を借り、

時間は永遠の彫像である

とも表現される。

ロジックは割愛するが、「永遠の現在」は、 休むことのない死 原文検索 であり、永遠の苦痛である。幸福とは、その苦痛を認識の力でごまかしているに過ぎないんだよというのが実はこの句のテーマである。

本当は”過去”など存在しないのに、認識は過去を美化して「マーヤーのヴェール」となり我々を欺く。過去の幻像から現在に眼を転じれば、やはり苦痛であることに何の変わりも無い。

だから、実は幸せとはその程度のことで、幻なのですよ、というのがショーペンハウアーの言いたかったことなのだ。

女性の美

男の性欲がなくなれば全ての女から美は消え去るであろう。

出典:

  • 「女について」
    この掌編はたった22ページしかないが、破壊力が高い。
    『背の低い、肩幅の狭い、尻の大きな、足の短い種族を、美しいものと呼びうるのはただ性欲のために呆けている男たちだけである。』
    と散々である。

ショーペンハウアーは、母親(ヨハンナ・ショーペンハウアー)との反目も手伝って女性に手厳しいが、単に批判をしているのではなく、女性の本質を見抜いた記述の評価は高い。しかしこれは少々弁護のしようの無い悪口と捉えられても仕方ないかも知れない。

もしかしたらショーペンハウアーからは本当に性欲が消え去っていて、純真に上記のようなことを疑問に思ったのかも知れない。結局は、謎である。

女同士

男同士は無関心に過ぎないが、女同士は生まれながらにして敵同士である。

出典:

  • 「女について」 §17
    『女性の運命は、いかなる男に気に入られたかということのみで決まるからである。』
    と、社会的な背景も考慮に入れられているのが面白い。

ショーペンハウアーの考えでは、一夫一妻制は女性を不幸にする制度であった。それは、一夫多妻制の時代に比べ、男性が慎重に女性を選ぶようになったことで、「あぶれる」不幸な女性が増えたから、であると言う。彼は結局結婚しなかった。

女性とは

ショーペンハウアーの名言。「女性とは」

女性とは、肝臓を持ちながら、胆嚢を持たない生物のようなものである。

出典:「女について」

  • 『女性とは、肝臓を持ちながら、胆嚢を持たない生物のようなものである。直感的なものは理解できるが、抽象的な思想や、硬い決心や、長期的や思考を持たないので、真の道徳を敷衍出来ない。』
  • 『この理由で女性は生まれつき不正に長けている。女に嘘をつくのはすぐに見破られるのでやめた方がいい。上記の根本的欠陥から、虚偽・不貞・裏切り・忘恩などが生じてくる。』

解説:
ショーペンハウアーの女性蔑視は、もはや芸術的だ。女の嘘が上手いとは、日本でも昔からある俗説で、感情的に使われがちなフレーズ。価値観が近視眼的であることでそれを説明しようとしているのはそれよりは細かいというか、論理的ではある。

だが、胆嚢はさすがに酷いだろう。煽りが入っていると言える。

学者と思想家

学者とは書物を読破した人、思想家とは世界という書物を直接読破した人のことである。

出典:

  • 「読書について」 思索 §2
    上の文章の出典。また同じ章に、
    『目に映る世界は読書とは違っていかなる既成の思想も押し付けない。ただ素材と機会を提供して、その天分とその時の気分にかなった問題を思索させるのである。』
    とある。
  • 「読書について」 思索 §4
    『読書は思索の代用品である。読書は自らの思想の湧出が途絶えたときにのみ試みられるべきものである。』
  • 「教育について」 §1
    『まず直観が存在し、概念は後から出来る。私たちの知性がこれを可能にする。これが自然な教育である。だから、人為的な、概念の伝達に頼った教育は間違いである。』
    『だから学者には往々にして無学の人でも持っている常識が欠けている。』
  • 「意志と表象としての世界」 §38-1 美の認識
    『自然は外部から芸術家に歩み寄り、純粋認識の情調にしてしまう。』
    『一方、大多数の人間は一人で自然を相手にすることを好まない。彼らは友人や仲間を必要とし、少なくとも本を必要とする。』
    自然の美の鑑賞について。

解説:

ショーペンハウアーが多読家であったことは、その著作に置ける引用の膨大さから伺えるが、常に他人の思考に乗っ取られないよう気をつけていた。

彼は思想家に独自の思想を生み出させ、芸術家に作品を産み落とさせるのは、この世界の「純粋」直感であると考えた。それに対し、読書とは、「他人の思考を頭の中で再生させること」であり、出来るだけ避けるべきことと考えた。

明快さ

大切なのは普通の言葉で非凡なことをいうことである。

出典:

  • 「思索」 §8b
    真の才能に恵まれた頭脳の持ち主の作品には、断固たる調子、確固たる態度、明晰判明な表現があるが、これらのいずれも凡庸な人々には欠けている。
  • 「意志と表象としての世界」 §47 裸身
    思想豊かな精神は、平明に自己を表現する。貧弱な精神は、遠回しで曖昧な、小難しげな言い回しで武装して、華麗ではあるが空漠としている。

解説:

ショーペンハウアーの根本的な思索の態度を表した語。

このサイトの主著の要約からもわかるように、ショーペンハウアーの哲学はほとんどが普通の言葉からなっていて、独自の専門用語はほとんど無い。

そのおかげで、ショーペンハウアーの哲学は時代を超えて読み継がれるのかも知れない。

逆に、わかり易すぎることで学者からは無視されたり、アンチが続々と誕生したり、さらには浅いと考えられてしまうという運命をたどったが、ショーペンハウアー本人はそのようなことを恐れなかったようである。

世界は苦痛に溢れている。

貪り食う動物の喜びと、今まさに貪り食われている側の動物の苦しみを足してみたまえ。世界には苦痛のほうが多いことが容易に判るだろう。

出典:

解説:

ショーペンハウアーの哲学は厭世哲学と評されることがあり、この言葉に端的に表れている。

この考察から、動物にとっての幸福とはまず苦痛が無い状態であるとされた。

幼いころから商人だった父に連れられて世界中を旅し、下層階級の人々が虐げられる様を嫌というほど見せつけられてきたショーペンハウアーの、原体験が窺える言葉。