§22 意志は力を包括する

自然現象を成り立たせているものとして、哲学では「力」という概念が利用されてきた。
しかし、実は「力」とは相対的な概念に過ぎない。
「力」とは「結果」に対して「原因」が及ぼす影響のことであるが、
この定義からして、原因と結果の間に成り立つ相対的な関係を表す概念に過ぎないことがわかる。
あらゆる他の概念と同様に、力という概念の基礎となっているのは、
結局、客観世界の認識なのである。

しかし、私が求めているのは、相対的ではなく、直接的な表象による世界の描写である。
世界は直接的な表象=「物自体」によって描写されるべきである。

それは、自然のなかで前進し作用しているすべての力の本質であるところの「意志」である。
もちろんこれは人間の意志と本質的に同一のものだから、こう呼ぶのである。
「意志」こそが、世界のパーツである「物自体」なのだ。

「力」という概念は、二次的なものとして退けるべきである。
なぜなら、「力」という概念を「意志」という概念に還元することで、
一つの未知の概念を既知の直観に還元したからである。

§16-2 ストアの倫理 (第一巻最終章)

ストア派の目指す幸福とは、「苦痛を避けて生きること」である。
そのため、ストアの賢者が有徳的な振る舞いをしたとしても、
それは目的に対する手段であり、単なる副作用に過ぎない。

ストアの開祖ゼノンはこのような生き方を「一致して生きる」と呼んだ。

しかし、「苦しむことなく生きること」には矛盾が内在している。
ストア派の教えには、苦痛を避けるための自殺さえ織り込まれているのである。

ストア派での平静・知足(足るを知ること)は人間の本性と相反したものであるから、
我々はそのような概念を具体的に思い描くことさえ出来ない。
そのため、ストアの賢者の生き方は生気を感じさせない模型人間のように感じられる。

§16-1 理性と悟性の二重生活 (第一巻最終章)

理性のみに従った行動は間違いである。

それは、明証をしりぞけ、証明にのみ頼る数学や、
抽象的でないものを情と言うカテゴリにくくってしまうことや、
抽象的な格率のみにしたがって杓子定規に生きる(カント批判)ことと同様に
間違いである。

人の特徴は、具体的なものと抽象的なものとの間で、二重生活を送る点にある。

時間の中で、内面的認識に対し理性をそなえていることは、
空間の中で、感覚的認識に対し眼をそなえていることにほとんど等しい。

しかし、理性的に行動することと有徳的(倫理的)に行動することの差について、
最後に指摘しておかなければならない。

§15-3 哲学とは直観(“物自体”)の抽象化である

科学は必ず、それ以上その時点ではなぜを追求できない「隠れた特性」を仮定して、そこで立ち止まるものである。
その意味では、もろもろの現象の関係のみが科学にとっての問題である。

哲学はいかなるものも既知として前提とすることは無く、すべてのものが未知であり、問題である。
そのため、哲学はもろもろの現象、つまり「物自体」を問題にする。

したがって、科学が限界として設定するところから哲学が始まる。
(概念間の根拠の原理である)証明は哲学の基礎たりえず、明証がそれに取って代わる。

したがって、哲学はこの世界が「どこから来て」「何のために存在するか」という関係性を明らかにすることはしない。
ただ、この世界が「何であるか」を明らかにするものである。

(さらに…)

§14 科学

科学とは、
体系的な知識である。

それは、AからBを導くと言う論理の上下関係をもつ知識の集合だが、
プラトンのイデアのようにひとつの「普遍」が
全ての直観の上にあるというのに似た単層構造ではなく、論理による階層構造である。

公理からあらゆる定理を導く構造になっているが、
数ある知識の中からどれを公理とするかは自明ではない。
しかし、知識の中でも「明証」は直観的に理解できる。

明証的なものを、論理により証明しようとするのは、
松葉杖で歩くために脚を切り落とすような本末転倒の行為である。

あらゆる定理のなかで公理とすべきものを抽出するのは「判断力」である。
科学者は判断力によって最も明瞭な公理系を選ぶべきであり、
科学は明証の上に立つべきである。

§13 笑い

抽象的な知は、むしろ直感的な知には厳密には一致しない。(微細な変化形態を捉えることは出来ない。)

笑いをこの観点から説明しよう。

ある種の笑いは、あるものについての「概念」と、「直観的な表象」のギャップが知覚されることにより生じる。
特に、日常的に隠されていたギャップがにわかに強調された際に、笑いは生じやすい。
この結果、笑いは

  • 逆説的である
  • 思いがけないものである

といった特徴をもつ。

「概念」を理性により杓子定規に適用して愚行を行う場合が「ペダントリー」である。
ペダントリーの徒が硬直した格率を人生のあらゆる場面で適用するたび、
いつもどこか足りないところが出てきて、野暮で、愚かで、役に立たないことになる。
ペダントリーの徒は芸術に向いていない。
「道徳的」なペダントリーは、もっと始末におえないものである。(カントや『政治学者』に対する批判)

二つの異なる「直観」を恣意的にひとつの「概念」にくくりいれ、
ギャップのおかしさを楽しむものが「機知」である。
わざと二重の意味に受け取られる言葉を使って猥談を行うことも、「機知」の一種である。

「機知」は、常に言葉によって表現される。
これは、愚行が行為として表現されるのと対照的である。

(さらに…)