§67-2 泣く

泣くことは人間を動物から区別している。人が泣くのは想像力がそうさせるからである。

苦痛だけでは人は泣かない。自分を客観的に認識し、どうしてこんな目に合わなければならないのかと思い、その状態への同情を通して、二重に苦痛を知覚した時彼は泣き出し、その痙攣が自分自身に安らぎを与える。

だから、同情心の無い、冷酷な人間や、想像力に欠けた人間は滅多に泣かないものである。

人が死んだ時にも、自分の死の運命を想起して自分自身に同情して泣くのである。だから、生きて行くのが苦痛でしか無いほどの重病人である父親が死によって解放されたとしても、人は泣く。大切な人が死んだからという理由で泣くのは、自分の利益が損なわれたと言って泣くことで、利己心である。

§67-1 愛

人間にはエゴがあり、自分の個体を最優先にする。だから、基本的には愛は他人の苦悩を自分と同一視することで可能となり、共苦することである。

だから、エロスは自己愛であり、真の愛はアガペーである。

現実は、これらの混合である。
例えば真の友情でさえ、友の側にいることで満足する気分は利己心であり、友のために自己犠牲をいとわないところに共苦がある。

§64 世界征服者と反逆者

世界征服者が、並外れた悪心と、並外れた精神力とを組み合わせて、世界征服を成し遂げ、万民に苦悩を与えたとする。すると、全ての民衆が、彼等が受けた総和に等しい苦痛が、その悪人に降りかかれと望むようになる。この感情の正体は実はエゴイズム(§61 エゴ)の一種である。

これに対し、反逆者がこうした独裁者を暗殺し、自らは断頭台に消えるのは、無私の心である。彼は、未来の大悪人たちを、威嚇しようとして殉じるのだ。しかし、このような英雄も、時間という幻影(§3 根拠の原理 – 時間の原理)に惑わされ、永遠の正義(§63-1 永遠の正義、永遠の罪)を見誤っている。

§63-1 永遠の正義、永遠の罪

ここまで論じた正義は、実は時間的な正義に過ぎない。未来のための仕組みだからである。ここでは、永遠の正義について述べよう。

実は、永遠の正義は既に実現されている。個体化の原理に囚われた人間には、悪行と被害が別個のものに見えるだろう。しかし、意志を満足させる不正行為こそか、自分の生の苦痛の一切を生み出しているのである。害と悪を、ただ一つの生きんとする意志の異なった二面に過ぎないことを認識出来るものは稀である。だから彼は、害をなすことによって、個体としての自分の苦しみから逃れようと試みることがしばしばあるのだ。

このように、個体化の原理に完全によりかかって生きるのは、荒れ狂った海上で、一艘の小舟に命を託すようなものだ。

永遠の正義の意味は、自分が被る悪行は、全て自分の本質から流れ出しているという教えである。つまり、人間の至上の罪は、生まれてきたことなのだ。

これはキリスト教の原罪の教えであり、ヴェーダの中核、ウパニシャッドの、tat tvam asiという教えである。また、ウパニシャッドの教えを生きて最後に報酬として得られるのは、「汝は二度と生まれ変わらなくてよい」ということである。

§62-6 刑法

刑法の目的は威嚇による未来の不正の防止である。この点で復讐とは異なる。

カント派の人々は、これは犯罪者を手段として利用することになると批判するが、目的が万人の利益の保護であることを忘れてはならない。

国家や刑法によって不正が根絶されても、次には国家間の戦争がやってくるし、戦争が根絶されれば地球全体で人口過剰が起こる。その結果の恐るべき悪禍は、今のところ大胆な想像力の持ち主にしか思い浮かべることは出来ない。