自殺について

『自殺について』の解説です。

ショーペンハウエルの結論:

自殺は愚かしい。

 

論理的階層:


 

以下、架空の自殺者と、架空のショーペンハウアーとの対話を想定しています。

ショーペンハウアーの自殺に対するスタンスは一般的に肯定的(したければ勝手にすれば?)ですが、自殺は”迷妄の港である”と著書「自殺について」で語っています。

 

 

議論(本編):

何故自殺を迷妄と考えるのか?:

自殺では、目的を達成できないから。

目的に対して誤った手段をとることは愚かしい。

 

目的って何?:

苦痛からの開放。

 

自殺によりもたらされるもの:

死。個体性の消滅。

 

では何故、自殺では、苦痛から開放されることが出来ないのか?:

まず、個体性などというものは、空虚な欲望と苦痛からの逃避に操られている、極めて空虚で無価値なものである。

つまり私の哲学にとって、現存在、つまり人の人生はすべて、不幸になることを約束された、何の価値も持たない下らないものに過ぎないのだ。

苦痛は意志の本質であるのに対し、自殺は個体性の消滅しかもたらさないから、自殺が意志の本質である苦痛を解決しうるわけがないのだ。

 

苦痛とは?:

あなたが感じている苦痛がそれだ。しかし、苦痛一般は、より大いなる苦痛の本質が現象したものにすぎない。苦痛は意志の本質なのだ。

 

意志とは?:

人間の本能の本質。すべての人間の本能を現象させるものだ。人間だけでなく、世界に存在するすべての力を現象させる根本原因だ。

 

まとめると、世界の本質である苦痛から、個体性を消滅させることで開放されることは理にかなっていない?:

個体が苦痛から逃れることはできるが、だがそれでは、苦痛一般から逃れることはできないのだ。

 

個体が消滅したら何が起こる?:

その個体は現象としては消滅するが、実在する意志としての世界も、その他の個体性も存続する。

 

個体が消滅しても苦痛は残る?:

然り。苦痛は残る。苦痛は意志の本質である。

 

しかし、実在する意志としての世界も、その他の個体性も、私とは関係ないのでは?:

あなたという個体性は、その他の個体性とも、表象されえない意志とも一致しない。

 

言い方を変えれば、「私の苦痛」は、私という個体性の消滅により消滅するのでは?:

あなたのいう「私の苦痛」は、認識されるものと認識されえないものとに論理的に分かれる。

前者(主観が認識する苦痛)は消滅するが、後者(意志の本質に因る苦痛)は消滅しない。

 

後者の苦痛が減じ得ないことが問題なのか?:

然り。

 

後者の苦痛は認識されえないものであるからして、現在私はそれに苦しめられているといえないのではないか?:

それは違う。

意志は認識し得ないものだが、あなたも自らの意志から湧き出る衝動に従って行動しているはずだ。その行動そのものの本質が苦痛なのだ。

 

それは認識された、個体的な苦痛なのでは?:

アポステリオリにはそうだ。あなたの身体は、アポステリオリに認識された意志(意志の客体化)に過ぎないのだから。

意志の生み出す生の衝動こそが苦痛の源泉なのだ。

 

なんとなく意見が変わってきたような気がする。:

私はきわめて平明なことを言っていると信ずる。

 

もしあなたが私を煙に巻こうとしているのではなく、

自殺では果たせない「根本的な解決法」でもあるというのだったら、

その解決法をズバリ一言で言って頂けないだろうか?:

 

「苦痛から自由になりたいなら生への意志を否定せよ。

すべての意志を否定すれば、この世のあらゆる存在が無に転じる。

逆に、今まで無だと思っていた一切が真の存在であることに気づく。

すなわち、色即是空の真我に至り、超越的認識を可能にするのだ。」

 

補遺:

他の哲学者は自殺についてどう考えたのか?
シモーヌ・ヴァイユは上記の生きんとする意志の否定を実践しました。餓死による自殺を行い、1943年、34歳で死去。

違った視点で自殺を見るのはカミュが面白いです。
ふと日常の隙間に不条理の出現を垣間見ると人は死にたくなるという話です。

ショーペンハウアーの傾倒したヴェーダや仏教思想等も「自殺について」を読み解く助けになります。

4 Responses to 自殺について

  1. どぶろくK says:

    個人の死
    個体の死
    死によって何も感じなくなっているんだから
    死ぬことによって苦しみは感じなくなっているのではないだろうか

    もし死後の世界においても意識が存在するならば
    悠久の時を超えてかつての天才はその思考を更に深め
    現世界に死人と交信できる方法、手段を考察しえなかったのだろうか

    死によって苦しみからの解放、生からの解放は成功するのではないだろうか

    • blackcloister says:

      ショーペンハウアーの考え方だと、人生は夢なので、死んでいる間は眠っているのと同じで、確かに苦しみは感じないという考え方になりますね。(意識も消えると言っています)

      ただ、夢は覚める、つまり死んでもまた生まれてきてしまえば苦しい世界に戻ってくるので、死ぬことによっても苦痛から逃れられないと彼は考えました。

      彼の考え方ではたとえ自殺しても苦痛から逃れられる保証はありません。輪廻は、毎晩繰り返す悪夢にうなされるのと同じです。そこで、苦痛という世界の本質をどう克服するかが彼の哲学のテーマとなりました。

      死人と交信できる方法についてですが、ショーペンハウアーの考え方だと、死人は無です。「我々の真実の本質は死によって破壊せられないものであるという荒唐無稽の誤った観念(『自殺について』より)」死人は一時的に苦痛から解放されているかのように見えますが、またすぐにどこかで生まれ変わり、永遠に苦痛に苛まれると彼は考えていたようです。

  2. 匿名 says:

    肉体は滅びても、自分としての魂は残る。
    単純なこと。

    自殺して死んだとしても、魂は来世へ引き継がれる。
    自分の苦しみは、自分で解脱しないと、それから逃れることはできない。

    そのために、この世というものをどう考えるか、自分自身というものはどういうものであるか、ということをショーペンハウアーは教えている。

    自分への否定、生への否定、それは釈迦の”解脱”と同じこと。
    この世に対しての全てのことに、執着するな、ということ。

    だったら、捨てればいいのか?
    それはまた早合点。
    早合点の行きつく先は、厭世観や、安易なあるがまま思想、白か黒か、是か非か、、、と極端。

    バランスは真理。
    そのバランスは、この世の言う道徳的・善悪的バランスとは違う。

    釈迦の言う”中道”、老子の言う”無為自然”がそれ。
    この世的に考えるから、すぐに自殺はいいのか悪いのか、といった小さなことにとらわれ、永遠と答えの出ない考えを繰り返す。

    悟った側の視点は、解脱して神に触れているもの。
    その無限に大きな視点と、自分たちの小さな思考をわかることがまず第一に大事なこと。

    これが、ショーペンハウアーの言う、自分への否定、の小さな第一歩。

    自分を疑え。
    自分を疑うことが、真理へと行く、スタート点。

    ここで、ムカッとしている人は、自我の反応。
    そう、それだよ、自我って。
    自分を大事にするって、実は敵意、戦い、苦しみを生み出すもの。

    そこから離れて、永遠に安心できる、真実の幸福を得なさいと、こういう方々は教えてくれている。

    それは、絶対に、物的なことではない。
    人の愛を得ることでさえ物的である。
    神の愛を求めなさい、得なさい、そうして辿りつく先が、

    釈迦のいう ”涅槃”

    「色即是空 空即是色」

    ~~~あなたたち(この世)から見れば、私たち(真理・神側)は見えない、信じられない世界であろう。
    でも、私たち(神側)から見れば、あなたたち(この世)の方が、一時的な不安定な幻の世界なんだよ。~~~~

  3. estrella says:

    苦痛から、個体性を消滅させることで開放される(?)

    「解放(liberate)」と「開放(open)」は意味がちがうと思います。

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