§68-1 生きんとする意志の否定

「個体化の原理」を突き破った人にとっては、他人と自己の区別が無いので、他人の苦痛を自分の苦悩として感じる。最高の慈悲深さを持つばかりに、自分を犠牲にして、自分自身の命を犠牲にしてさえ他人を救おうとする。こうして、彼は全世界の苦痛を我が物にするだろう。

彼にとっては、意志の衝動から生まれる欲望でさえも、世界の苦痛の認識にかき消されてしまう。いわば、認識がいっさいの意欲の鎮静剤となる。これが、生きんとする意志の否定の状態であり、自発的な断念、捨離、沈着、無意志の状態である。

§57-3 精神の容量

非常な歓喜を覚える人は激しい苦痛も味わわなければならない。これは、一度に受け取れる歓喜や苦痛の容量が、その人の精神的感受性により一定だからである。

非常な歓喜や苦痛は、現在的なものではなく、未来の先取りによる。言い換えれば、それは誤謬や妄想である。

我々は、事物の関連を明瞭に見渡して理性的に洞察し、辛抱強く自制しなければならない。しかし実際には苦い良薬には目を防いでしまうほど、我々は愚かである。

§57-2 不変の苦痛とそれへの対処

絶え間無い苦痛が人間の本質だから、逆に何をしても苦痛の総量は変わらないということを認識すれば、心は慰められる。苦痛は偶然に左右されない必然だ。

苦悩を追い払うことは出来ない。苦悩は絶えず形を変えてやってくる。性衝動、愛、嫉妬、羨望、憎悪、不安、名誉心、金銭欲、病気…。

しかし、我々が苦痛に対してイライラするのは、それを偶然だとか、自分の運が悪いせいだとか思うことによるのである。

苦痛は必然であり、あらゆる形をとって絶えずやって来ると分かっていれば、我慢が出来る。死や老いに我慢がならなくて始終イライラしている人がいないのも、それが避けようのないものだからである。

普通の人は苦痛を外的原因によるものと考え、いつも苦痛の言い逃れを見つけようとしている。これはあたかも、自由の身でありながら、奴隷に戻ろうとするような行為である。

世界は苦痛に溢れている。

貪り食う動物の喜びと、今まさに貪り食われている側の動物の苦しみを足してみたまえ。世界には苦痛のほうが多いことが容易に判るだろう。

出典:

解説:

ショーペンハウアーの哲学は厭世哲学と評されることがあり、この言葉に端的に表れている。

この考察から、動物にとっての幸福とはまず苦痛が無い状態であるとされた。

幼いころから商人だった父に連れられて世界中を旅し、下層階級の人々が虐げられる様を嫌というほど見せつけられてきたショーペンハウアーの、原体験が窺える言葉。