§70-2 福音

キリスト教が伝えようとしている大真理は、ひとつだけである。

それは、最初の人間が犯した原罪(意志の肯定)が、キリスト(意志の否定)により救済されるという教えである。

隣人愛はエゴイストを救済する。「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出す」のは意志を否定したからである。

最近では全く同じ思想をルターら純粋な福音派が唱えているが、教会はキリスト教のユダヤ教的な側面(聖書)のみにしがみついているが、この二つは歴史的な偶然からキリスト教に結び付いたにすぎず、福音の教えこそがキリスト教の本質なのである。

§68-3 聖者たち

聖者たちの生活は、禁欲に始まる。彼らにとって禁欲と貧困は、修行のためにそうするのではなく、積極的に求められる目的である。意志の否定こそが目的であるのだ。

彼らが死に至るとき、それはあらかじめ準備されていたかのようである。すでに意志は鎮静され、その残り火が消えるかのように彼らは死んでいった。私は彼らの人生が羨ましくてしょうがない。

キリスト教の信徒も、インドの信徒も、ラマ教の信徒も、仏教徒も、神話は違えど、その目的はこのようにひとつであった。

彼らの伝記を読むことは、人生に希望を与えてくれるであろう。

  • キリスト教
    聖霊徒、経験主義派、静寂主義派、篤信熱狂派の人々の伝記
    『聖徒伝』『再生者たちの事跡』『祝福されたシュトゥルミの生涯』『聖フランチェスコ伝(聖ボナヴェントゥラ編)』
  • インド
    インドの聖者、贖罪者、沙門、捨離者の生活を描いた文学作品
  • 仏教
    『ゴータマ・ブッダの創始せる托鉢求道者団の報告』
  • 現代
    『ギョイヨン夫人の自叙伝』『スピノザ伝』
  • ゲーテの作品
    『ある美しい魂の告白』『聖フィリッポ・ネーリの生涯』

§68-2 家畜の救済

意志の否定を行う人の肉体は健全であり、生殖器を通じて性的衝動を表明してはいても、もはや新しい命を生み出そうとは思わない。自発的な純潔こそ、救済の第一歩である。世界中がこのような人ばかりになれば、人類は滅びてしまうだろう。

それでよいのだ。

認識主観である人類が消滅すれば、この世界が消滅したに等しい。なぜなら、世界は表象であり、主観のないところに表象は無いからである。

人間の消滅は、次に動物界に影響を与える。人間は動物を利用する代わりに、救済を与えなければならない。万物は人間によって神のもとへ引き上げられねばならない。人間は万物に対する司祭である。その慈悲は世界の苦悩を自分のものとすることからもたらされる。よって、人間は万物のための犠牲である。

§68-1 生きんとする意志の否定

「個体化の原理」を突き破った人にとっては、他人と自己の区別が無いので、他人の苦痛を自分の苦悩として感じる。最高の慈悲深さを持つばかりに、自分を犠牲にして、自分自身の命を犠牲にしてさえ他人を救おうとする。こうして、彼は全世界の苦痛を我が物にするだろう。

彼にとっては、意志の衝動から生まれる欲望でさえも、世界の苦痛の認識にかき消されてしまう。いわば、認識がいっさいの意欲の鎮静剤となる。これが、生きんとする意志の否定の状態であり、自発的な断念、捨離、沈着、無意志の状態である。

§60 エロス

ここからは、意志の肯定について論じる。

人間が自己保存に成功して、次に行う努力は種族の繁栄である。性欲を満たすことは最も積極的な意志の肯定である。

ヘシオドスやパルミデネスは、「エロスこそは万物の根本」であると言った。性欲には意志が最も強力に働くからである。

死は既に生が始まるときに決まっているから、意志を損なうものではない。意志は個体ではなく種族を保存する。意志は種族として、イデアとして、無規定の時間の中に現象する。

キリスト教には、根拠の原理から解放された箇所がある。それは原罪であり、アダムが性欲を満足させたことである。これは、生殖という種族の絆により、個体に分散してしまった人間が統一を回復するというイデアを教義にしたと言える。

各個体は意志の肯定としてアダムと同一であり、意志の否定としてキリストと同一である。これが救世主による救済という教義である。

§50 寓意

寓意は概念を基に絵画に埋め込まれた仕掛けで、純粋に芸術を鑑賞できない人々の歓心を買うためのものである。(ただし、ヴィンケルマンの考えでは寓意こそが芸術の最高の目的である。ショーペンハウアーの哲学とは当然相容れない。)

寓意の中でも象徴は、芸術に全く寄与しない。例えば、十字架はキリストの象徴である。象徴は概念であり、芸術に寄与しない

寓意が許される唯一の芸術は、詩である。詩は概念を用いて鑑賞者を直観の世界に誘う。隠喩、直喩、例え話、寓意が詩の仕組みである。文学における優れた寓意はいくらでも例を挙げることが出来る。

§48 歴史画・宗教画

人間の3種の美のうち、性格は歴史画において最も良く描写される。

芸術においては行動の内的な意義深さが、歴史においては外的な意義深さが重要であり、この両者は無関係である。

だから、単に歴史に取材して、イデアの伝達に失敗した作品は芸術ではない。学者のみがそうした作品を好む。

我らの起源はユダヤ人の歴史である。ユダヤ人の歴史から画題を採った作品は、不幸なことに殉教者や陰惨な事件が多くなってしまった。これらは本来画題としてはふさわしくない。とはいえ、本来のキリスト教絵画とこれらの作品は明確に区別されるべきである。

キリスト教精神に取材した、ラファエロやコレッジョの作品は、救世主の眼のうちに完全な認識の出現を表現した。これらの作品は意志を鎮める鎮静剤となっている。これが芸術の頂点であり、意志が自分で自分を廃棄する姿を描いている。

§47 裸身

古代の彫刻では裸体像が好まれる。これは、美しい身体の形は、軽装時に最も効果的に暗示されるからである。

同様に、思想豊かな美しい精神は、自然に、平明に自己を表現する。貧弱な精神は、遠回しで曖昧な、小難しげな言い回しで武装して、華麗ではあるが空漠としている。

§46 彫刻と悲鳴(ラオコーン論)

ラオコーンは神々に罰を受け、大蛇に絞め殺された。このような状況では悲鳴を上げざるをえないのに、ラオコーン像は悲鳴を上げていない。この問題は、ずっと議論されてきたが、我々の理論では単純だ。

芸術には各々限界がある。絵画や彫刻は美を損なわずには悲鳴を表現出来ないから、ラオコーン像は悲鳴を上げていないのである。

§45-2 人間の美しさ2 動作・性格

人間の美しさは

  1. 姿(種族の特徴)
  2. 動作
  3. 性格

に基づいている。

動作の美しさは、「優美さ」である。動作が意志の欲求を最短経路で淀みなく実現するときが、最も優美である。つまり動作の優美さとは合目的性である。逆に、動作が意志に一致しない場合、優美さを欠いている。動物の動作にも優美さがある。

芸術においては、1.姿の描写と3.性格の描写は両立せねばならない。1.に偏れば無意味なものになり、3.に偏ればカリカチュア(風刺画)になってしまう。例えば彫刻は1.の美を目指しているが、美は幾分かは3.性格によって変容されねばならない。

芸術においては、3.性格の描写は1.種族の特徴の描写を毀損してはならない。この例は、酔っぱらいのシレノスやサテュロスを醜悪に描きすぎて、人間とは思えないほどになってしまった場合である。

同様に、3.性格の描写は2.動作の優美さの描写も毀損してはならない。この例は、性格を表現するために不自然な姿勢や動作を取らせることにより、意志と不整合になってしまう場合である。

彫刻においては1.の美と2.の優美さに重点がある。これに対し、3.性格の描写には絵画に分がある。次章(§46 ラオコーン像)では、ラオコーンを描写した絵画では悲鳴を表現できるが、ラオコーンを描写した彫刻では悲鳴を表現できないことについて論じる。