「表象」とは何か

「表象」とは、「今直接見えているもの」や「心に浮かぶ像」のことです。

まず「主観」とは、あなたや私の意識のことです。「認識」は、「見る」行為そのもののこと。ただし能動的・意識的に見ることも、受動的・無意識的に見ることも両方「認識」です。

 

「客観」とは、何らかの主観に認識された対象物のことです。「表象」は、「客観化されたもの」のことです。「心に浮かぶ像」というとわかりやすいでしょう。我々は、認識を通してあらゆるものの存在を知ります。そのため、

 

世界は私に認識されるもの、つまり「表象」の集合体である

 

ことになります。

 

まず「世界」という全てを含む大きなものがあって、その一部を「表象」の形で認識していると考えるのが自然ですが、ショーペンハウアーは世界に認識されないものがあるならそれはないのと同じことであると考えます。例えば、重力のような目に見えないものであっても、自分の体が地表に固定されており、浮き上がらないという現象として、認識されているわけです。

§28 イデアの相互適応(外的な合目的性)

意志の多様な現象(諸イデア)は、和解なき闘争を永遠に続けている。

特にイデアは人間を頂点とするピラミッドを形成しており、人間かその維持のために動物を必要とし、動物は段階的に他の小動物を、またさらに植物を必要とし、植物はふたたび土壌、水、化学的要素、ならびにそれらの混合物、惑星や太陽、自転と太陽をめぐる公転、黄道の傾斜、等々を必要としている。意志以外にはこの世界になにひとつ存在しないのに、しかも意志は飢えたる意志であるから、おのれ自身を食い尽くさなければならない。狂奔、不安、苦悩、いずれもここに由来するのである。

しかし、イデアの相互作用には適応という面もある。この面は、動物の行動を観察するとよく分かる。

まず一つは、空間的な適応である。動物は環境に適応しているが、逆に環境が動物に適応するということも起こる。これは、イデア同士が時間の外で相互適応しているからである。

  • それゆえいかなる植物も土壌と気候に適合している。
  • いかなる動物も生活環境と、獲物に適合しているし、天敵からもなんらかの仕方で保護されている。
  • 眼は光とその屈折に適合している。
  • 肺や血は空気に適合している。
  • 魚の鰾は水に、
  • 海豹の眼はその媒質の変化に、
  • 中に水を含んだ駱駝の胃の中の小胞はアフリカ砂漠の乾燥に、
  • タコブネの帆はその小さな舟を押し進めるべき風に、

それぞれ適合しているのである。

このイデア間の協調的な相互作用を外的な合目的性という。

外的な合目的性の他の二つは、時間的・因果的な適応である。

いかなる動物も、時間的にすでに前からあった環境そのものか、やがて将来に生じるであろう生物をも同様に考慮に入れていたと想定することができる。現象は現象である以上、因果の法則に従っているが、時間の順序のなかへ自分の現象をより早く出現させたイデアは、遅く出現させているイデアよりも、時間的に早いというだけでなんらかの特権をもっているわけではない。むしろ自分の現象を遅く出現させているイデアの方が、ちょうど意志の客観化のもっとも完全なものになっている。(ショーペンハウアーの考えにはこうした直観的な進化論の萌芽がみられるように思える)

この現在においては、種族は自分を維持するだけではなく、自然の先慮に従っている。本来的に時間の順序をいわば切り捨てながら、未来へと及んでいく、そのような自然の先慮を目にすることがあるのである。こうした例をあげるなら、

  • 鳥はまだ知らない雛のために巣を造る。
  • 海狸は自分で目的も知らずにある建物を築く。
  • 蟻、山鼠、蜜蜂は自分の知らない冬のために貯蔵食糧を集める。
  • 蜘蛛、蟻地獄は自分の知らない将来の獲物のために、まるで策をめぐらしたかのように罠を設営する。
  • 昆虫はやがて生まれてくる幼虫か将来食物を発見できるような場所に卵を産みつける。
  • 雌-雄異株の石菖藻の花の咲く頃、雌花がそれまで自分を水底に繋ぎ止めていた茎をほどいて、水面に浮かび上がってくると、それまで水底で成長していた雄花は、同時に水面に浮かび漂いながら雌花を探し求める。受精をすませると、雌花のみ再び縮んで水底に戻り、水底で実を結ぶ。
  • くわがた虫の雄の幼虫は、成虫へ脱皮するため木のなかに雌の幼虫の二倍ものほら穴を噛みあげるのであるが、これは将来生えてくる角を容れるための場所である。

本能は、このように目的概念に従った行為にきわめて似ていながら、実際には目的概念を完全に欠いている行為である。これが、イデア間に合目的性がある証拠である。

§3-2 財産の使い方

例えば自己の才能によって財産を築きあげたとして、その金は使って快楽を得るべきだろうか?そうではない。財産は事故から知的生活を守る保険・防壁であるべきである。

自己の才能によって金を儲けた人は、必ずうぬぼれる。ここに、「芸術家」、「手職者」、「商人」、「先祖から金を相続した者」の4種類の人がいると考えてみよう。

芸術家

芸術家の才能はたいていはかないものである。すぐに才能は尽き、金も尽きる。そうしているうちに金を使い果たし、破滅する。

手職者

手職者は才能が衰えても、ものが作れなくなるところまではすぐにはいかないものである。さらに彼は人も雇えるから、お金を使っても金を使い果たすところまではいかない。

商人

商人にとっては才能ではなく、お金そのものがさらに利益を得るための手段であるから、お金を快楽のために使いすぎることはない。

相続者

相続者は、資本には一切手を付けず、利息のみによって暮らす。(“ごくつぶし”については次の章で述べる。)

このような、金の用途の違いは何から生まれるのだろうか?それは、困苦の経験の有無である。

貧しい時代を知っている者、例えば芸術家は、貧しくても何とか生きていけることを知っている。彼らは貧しさを恐れない。そのため、お金をあればあるだけ使ってしまう。

逆に、生まれた時から富裕の身であるもの、例えば相続者は、まだ見ぬ困苦を、空気が無くなるのと同じように恐れる。こうして、彼らはたいてい外から嫁いできた妻には資本を継がせず、利息のみを継がせる。そして、子孫にのみ資本を継がせるものである。

§3-1 海水

財産が多いことは幸福であろうか?そうとは限らない。

要求と財産とは相対的なものであるから、たとえ金持ちでも、要求が財産より大きければ満たされず、不幸を感じる。

要求はどんどん大きくなっていく。どうしてだろうか?

それは、人間が要求の増大に慣れてしまうからである。富は海水に似ている。それを飲めば飲むほど、喉が渇いてくる。

要求が「次第に」増大していくものであることは、貧乏人の例を見てもわかる。ある貧乏人が金持ちの莫大な財産を見ても、心を動かされることはない。現状とかけ離れすぎていて、ピンとこないからである。むしろ、この貧乏人はちょっとした富に対してはうらやましくて仕方がない反応を示す。

§2-4 天才の孤高

この世で最も幸福なのは、天才の知的生活である。

人間の能力は自然界の闘争のためにある。しかし、体力・筋力などは、闘争が終わるや否や持て余されるようになる。このため、俗人は刺激感性の享楽、スポーツを始めとし遊歴、跳躍、格闘、舞踊、撃剣、乗馬などにその能力を空費するのである。

天才とは知的・ 精神的能力 原文検索 が有り余っている人のことである。彼は安静と余暇さえ与えられれば、持て余した能力を、作品に注ぎ込むことが出来る。天才は知的生活が自分の至上の目的となるほど没頭し、ライフワークとなる。能力が有り余っていなければ、こうした完全な没頭は不可能である。

このような生活が最も幸福なのは、以下の3点による。

  • 喜び 自分の能力を最大限活用できる。没頭の間じゅう、喜びに満ち溢れている
  • 苦痛と退屈からの解放 外部の刺激に幸福の源泉を求めないので、苦痛が無い。しかも、高度な知性は退屈知らずでもある
  • 進歩向上 能力の発揮が空費されることなく、作品に結実するため、不断に進歩向上する生活となる

これに比べて、俗人の生は無限に満たされることのない肉体的享楽の獲得のため、屈辱的な苦痛に耐え、しかもそうした生活が円環のように死ぬまで続くものである。だから、人間の幸福には人のありかた(1)、とくに精神的享楽の能力の有無が決定的なのである。

§2-3 俗物(フィリステル/Philister)

俗物とは精神的な欲望をもたない人間で、精神的な享楽をもつということがない。俗物にとっての現実の享楽は感能的な享楽だけである。したがって牡蠣にシャンペンといったところが人生の花で、肉体的な快楽に寄与するものなら何でも手に入れるということが、人生の目的なのだ。しかも、この目的のために何のかんのと忙しければ、それでけっこう幸福なのだ。

しかしまだ俗物には俗物なりの虚栄心の享楽がある。

富か位階か、権勢や威力などで他人を凌ぎ、それによって他人に尊敬されるという意味の虚栄もあれば、同じ俗物どものなかでも傑出したやつと付き合って、虎の威を借りる狐のような気分にひたるという意味の虚栄もある。俗物はその求める相手も、精神的な欲望を満足させてくれる人でなく、肉体的な欲望を叶えてくれる人である。それどころか精神的な能力を見せつけられると、嫌悪か憎悪を感ずる。富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢のみによって測ろうとする。こういったことは精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。

§2-2 苦痛と退屈

人間の幸福に対する二大敵手は 苦痛と退屈 原文検索 である。

苦痛から遠ざかれば退屈に近づき、退屈から遠ざかれば苦痛に近づくというように、われわれの生活は、苦痛と退屈の間の振り子運動である。例えば下層階級の人々は困苦すなわち苦痛と不断に闘い、これに反して富貴の社会は退屈を闘っている。退屈から逃れるために、困苦から生じた文明の最低段階である流浪の生活が、文明の最高の段階に見られる漫遊観光を通じて結局再現されているのである。

退屈の根源は内面の空虚であり、あらゆる種類の社交や娯楽や遊興や奢侈を求める心となる。この空虚が多くの人が浪費に走らせ、やがて貧困に落ちる。こうした貧困を最も安全に防ぐ道は、内面の富、精神の富である。優れた頭脳は全く退屈知らずで、同時に高度の感受性を持つから、意志、情熱の人一倍の激しさを根本としている。そのため、苦痛に対する感受性が高まり、才知に富む人間は何よりもまず苦痛のないように努め、安静と自由な余暇とを求める。そのために静かでつつましやかな、誘惑のなるべく少ない生き方を求め、いわゆる世の常の人間というものに多少近づきになってからは、むしろ隠遁閑居を好み、いっそ孤独をすら選ぶであろう。

人の本来具有するものが大であればあるほど、外部から必要とするものはそれだけ少なくて済み、自分以外の人間というものにはそれだけ重きを置かなくてよいわけである。
だから精神が優れていれば、それだけ非社交的になる。逆に精神的に貧弱で下等な人間であれば社交的だ。この世では孤独と共同生活とのいずれを選ぶかということ以外に格別の生き方もないのである。

余暇の時間に凡夫はただ時を過すことばかりを考える。

cards

どこの国でもおよそ社交界の主要な仕事は、トランプ遊びということに相場が決ってきた。トランプ遊びは社交界の価値を計る尺度であり、あらゆる思想の欠如を示す破産の宣告だ。彼らは交わすべき思想の持ち合せがないから、トランプの札を交わし、互いに金をふんだくろうとする。ああ、何とみじめな輩だろう。あらゆる奇襲あらゆる手管を弄して、他人のものを奪い取ろうというトランプ遊びの精神は、実生活に根をおろし、たまたま自分の手中にあるならどんな利益でも法的に許されるかぎりは争って差し支えないという傾向になってくる。

輸入の必要のない国がいちばん幸福な国であるのと同様に、内面の富を十分にもち、自分を慰める上に外部からは何ものをも必要としない人間が、いちばん幸福である。こうした供給は多くの費用を要し、輸入国を従属的な地位に立たせ、危険と不満をもたらし、結局は自国の生産物の埋め合せにはならないからだ。

§2-1 朗らかさ

自己の生涯にどういうことが起きるかよりも、その起きたことをどう感ずるかということ、すなわち自己の感受力の性質と強度とが問題である。個性は一瞬も働いていないときはないが、他のいっさいのものは機に臨み折に触れて一時的に働くにすぎず、そのうえ世の有為転変にも服している。してみれば、優れた性格と頭脳と楽天的な気質と明朗な心と健康頑丈な体格、宿る健全、われわれの幸福のためには第一の最も重要な財宝である。

さてこういった種々の財宝のうちで最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗らかさである。直接幸福を与えるものは朗らかさ以外にないのだから、朗らかさぽかりはいわば幸福の正貨であって、他のいっさいのものと同じような単なる兌換券ではない。

朗らかさを得るためには、

  • 健康
  • 気質

が必要である。

だからわれわれとしては何よりもまず完全な健康を得て、そこから朗らかさが花と咲き出るように心がけるがよかろう。日々適当な運動をしなければ、健康を維持することができない。すわりっぱなしの生活様式の数知れぬ人たちのように、外部的な運動がほとんど無いに等しい場合には、人体内部に満たされた不断の運動の間に、有害な不調和が生ずる。それは、何らかの激情のため胸の内は煮えくりかえっているのにそれを少しも表に現わしてはならないといったルールで縛られているかのような生活である。何よりもまず互いに健康状態を尋ねあい、互いに無事を祈りあうのは、理由のないことではない。このことから出てくる結論として、最大の愚行は、何かのために自己の健康を犠牲にすることである。利得のためにせよ、栄達のためにせよ、学問のためにせよ、名声のためにせよ、まして淫蕩や刹那的な享楽のためにせよ、健康を犠牲にしてはならない。

さて、朗らかさは健康だけで左右されるものではない。完全な健康に恵まれていても、憂鬱な気質とか沈みがちな気分とかがありうる。精神的感受性が異常に大であれば、間歇的には過度の朗らかさが現われるが、主としては憂鬱が基調になるというような、気分のむらが生ずる。天才も過度の精神的感受性によって生れたものであるから、アリストテレースが「哲学にせよ、政治・文学・芸術にせよ、すべて優れた人間は、憂鬱であるとしたものらしい」と指摘した。

陰気な人間は十の計画のうち九までが成功しても、この九を喜ばずに、一の失敗に腹を立てる。陽気な人間は、これと逆の場合にも、一の成功でみずから慰め、自分を明朗な気分にする骨を心得ている。せめてもの埋め合わせは、陰気型の性格の持主は、朗らかな呑気な性格の持主に較べると、想像上の災難や苦悩を多く経験させられても、現実の災難や苦悩を嘗めさせられることは少ないことだ。楽観的な誤算が少ないからである。

健康と部分的に似たものは美である。美は事前に人の歓心を買う公開の推薦状であり、男子にとっても非常に有効である。

§1-3 内面の貧困

人のありよう(1)が重要だとはいえ、時の力には、肉体的な美点も精神的な美点も、しだいに征服される。この点では、あとの二つの見出しに属する財宝のほうが、時の力によって直接奪われないだけに、第一の見出しに属する財宝よりもまさっている。さらにそれらは獲得可能なものであって、誰でもそれを手に入れる見込みだけはある。そのため、人間は精神的な教養を積むよりも富を積むほうに千万倍の努力を献げている。

本当は富の獲得に努力するよりも、健康の維持と能力の陶冶とを目標に努力したほうが賢明である。しかも実は有り余る富は、われわれの幸福にはほとんど何の寄与するところもない。というのは、富は現実の自然な欲望を満足させるだけで、むしろ大きな財産の維持のために不可避的に生ずる数々の心労のために、かえって幸福感が害われるくらいだからである。多くの人間は富を殖やすための手段の世界を自己の視界とし、この狭い視界からそとに出れば、何一つ知らない。精神はからっぼで、最高級の持続的な享楽、すなわち精神的享楽は、高嶺の花である。金持ちに不幸な人が多いのはそのためである。

暇はかからないで金のかかる刹那的な享楽をむさぼって、最高級の享楽のうめ合せをしようとしても、その効果は知れたものだ。内面の空虚と精神の貧困が、彼らを社交界に走らせるが、この社交界がまた彼らと同様の人間の集まりだ。はじめは各種の遊興に娯楽や慰安を求めるが、あげくの果てには淫蕩にこれを求めるようになる。金持ちに生れてきた長男殿が莫大な遺産をあっという間に使いさってしまうことがよくあるが、こうした手のつけようもない濫費の原因は、今言ったような精神の貧困と空虚とから起きる退屈以外の何ものでもない。

天罰覿面、とどのつまりは内面の貧困が外面の貧困までも引き起したわけである。

§1-2 精神的な享楽

人間は3種類の享楽を生み出した。

  1. 再生力の享楽。飲食、消化、休息、睡眠など
  2. 刺激感性の享楽。遊歴、跳躍、格闘、舞踊、撃剣、乗馬、運動、狩猟、闘争、戦争など
  3. 精神的感受性の享楽。考察、思惟、鑑賞、詩作、絵画彫刻、音楽、学習、読書、瞑想、発明、哲学的思索など

しかしこの中で、

  • 最も高尚で
  • 最も変化に富み
  • 最も持続的

な享楽は3番目の精神的な享楽である。

頭脳次第で、豊かでおもしろく味わい深いものにもなれば、世界は貧弱で味気なくつまらぬものにもなる。聡明な頭脳にはかくも痛快に映ずる出来事が、愚鈍平凡の頭脳から見ると、日常茶飯の世の中のおもしろおかしくもない一場面に変わってしまう。
ゲーテとバイロンの詩を読んでも、愚かな読者は、詩人の経験した惚れぼれするような出来事を羨みこそすれ、ごく平凡な出来事をかくもすばらしく造りあげた想像力を羨ましく思うことはない。位階や富の差に比例して幸福や愉楽の内面的な差異ができているわけではなく、どんな栄耀栄華も、愚者の鈍い意識に映じたものであれば、セルヴァンテスが居心地よからぬ牢獄でドンキホーテを書いたときの意識には比すべくもなくみすぼらしい。

人間に与えられる幸福の限度は、個性によって、あらかじめ決まっている。それは、精神的能力の限界によって精神的な享楽の能力が決まっているからである。精神的な享楽の能力が低い人間は、感能的享楽、家庭生活の団欒、低級な社交、卑俗な遊楽などに頼る生活を抜けきれない。

人々は大抵われわれの運命すなわち有するもの(2)あるいは印象の与え方(3)ばかりを計算に入れているが、人のありかた(1)によって大勢は決まってしまうのである。内面的な富をもっていれば、運命に対してさほど大きな要求はしないはずである。

さらに、人柄(1)はわれわれから奪い取られることがない。その意味で、他の二種の財宝(2)(3)が単に相対的な価値をもつに反して、人柄の価値は絶対的な価値だということができる。