§68-3 聖者たち

聖者たちの生活は、禁欲に始まる。彼らにとって禁欲と貧困は、修行のためにそうするのではなく、積極的に求められる目的である。意志の否定こそが目的であるのだ。

彼らが死に至るとき、それはあらかじめ準備されていたかのようである。すでに意志は鎮静され、その残り火が消えるかのように彼らは死んでいった。私は彼らの人生が羨ましくてしょうがない。

キリスト教の信徒も、インドの信徒も、ラマ教の信徒も、仏教徒も、神話は違えど、その目的はこのようにひとつであった。

彼らの伝記を読むことは、人生に希望を与えてくれるであろう。

  • キリスト教
    聖霊徒、経験主義派、静寂主義派、篤信熱狂派の人々の伝記
    『聖徒伝』『再生者たちの事跡』『祝福されたシュトゥルミの生涯』『聖フランチェスコ伝(聖ボナヴェントゥラ編)』
  • インド
    インドの聖者、贖罪者、沙門、捨離者の生活を描いた文学作品
  • 仏教
    『ゴータマ・ブッダの創始せる托鉢求道者団の報告』
  • 現代
    『ギョイヨン夫人の自叙伝』『スピノザ伝』
  • ゲーテの作品
    『ある美しい魂の告白』『聖フィリッポ・ネーリの生涯』

§4-5 3つの名誉

市民的名誉とは、平和的な社会に仲間入りするための名誉で、一度でも蛮行を起こせば失われてしまう。

誹謗や怪文書によっても失われてしまうから、法律により取り締まられている。誠実と信用が大事である。と書くとつまらないが、そもそも名誉とはそれを担う人が例外的人物でないことを表すのである。老年者の名誉も、長い間の市民的名誉の維持に信用がある。

職務上名誉とは、ある職務を司る人が、そのためのあらゆる能力をそなえ、任務を果たしているという評判である。違反者を厳しく告発する自浄作用もこの名誉を支えるのに不可欠である。官吏、医者、弁護士、教員、大卒者、軍人がそれぞれの職務上名誉を担っている。

最後の性生活上名誉は、女性の名誉と男性の名誉とに分かれている。

これは明白で、未婚の女性に対してはまだ男性に身を許していないという評判、既婚の女性に対しては1人の男性にしか身を許していないという評判である。この名誉も自浄作用で守られているが、結婚制度を維持しようという力が違反者を厳しく糾弾するのである。何故なら結婚という割に合わない取引は、信用のみに支えられているからである。

君主だけは、国益の定めた相手としか結婚出来ないから、可哀想だということで妾の制度が維持されてきたが、妾のほうも愛し合っても結婚出来ずに不幸であり、例外として黙認されている。

さて、男性の性生活上名誉は女性に対する労働組合的なものに過ぎず、姦通を厳しく罰しようというルールであり、これが出来なければ男性社会から不名誉を着せられる、というだけである。しかも情夫は処罰されないものなので、消極的な起源をもつ名誉だとわかる。

§4-4 誇り

誇りには2種類ある。

自分の人柄(1)に対する誇りは持つべきである。自らの長所を忘れると、低レベルな人間と交わって、釈迦に説法の説教をされることになるだろう。何故ならあなたの内面の長所は彼らに見えないので、すぐ忘れられてしまうだろうから。

これに反し、民族の誇りは最も安っぽく、いたずらに持つべきではない。これは、自らの内面になに一つ誇りを持てない憐れな輩が最後に逃げ込む場所である。

§4-3 虚栄心

虚栄心とは、自分に圧倒的な価値があるという「確信」を、他人の心中に呼び起こしてみたいという願いである。そうすれば自分も、自分自身に価値があると思えるのではないかという、密かな期待が伴っているのだろう。

要は他人の思惑によって自分の価値の認識を変化させようというわけで、この方法で「自分の価値に対する揺るぎなき確信」が得られないのは明白である。誇りも得られない。誇りは確信に基づいており、われわれに左右出来ないからだ。

虚栄心の強い方々に御忠告差し上げたいのは、どんな素晴らしい話がおできになるとしても、ずっと黙っておいでのほうが、他人の好評が得られるということである。

§4-2 名誉欲

「賢者でも名誉欲は捨て難い」と昔から言う。名誉欲の迷妄の本質は、自分にとって直接には存在していないもののために、自分にとって直接存在しているものを犠牲にしてしまうことである。名誉欲について次のことを知っておけば、この罠に陥ることは無い。

  • 名誉は他人の頭脳の中にしかないものだから結局間接的な価値である。
  • 他人の意見は大抵われわれに影響しないものである。
  • 名誉欲の強い人間は他人が自分を褒めるのを聞きたがるものだが、面と向かっては自分を褒める人間が、陰で自分の噂をするさまを聞いたら、癇癪を起こして病気になってしまうほどである。

結局名誉欲に囚われれば、心の安静と満足という、幸福の条件を自ら失うことになる。

§4-1 人の与える印象

猫は撫でてやると必ず喉を鳴らすが、人間も得意なことで褒められると、喜色満面になる。

人は他人の意見の奴隷であり、この喜びを過大評価しないよう、気を付ける必要がある。

人のあり方(1)と有するもの(2)に対して、人の与える印象(3)はわれわれにとって本当に存在するものではない。およそ人の頭には未熟さ、浅薄さ、偏狭さ、おびただしい誤謬が渦巻いており、どんな偉大な人物にも寄ってたかって非難を浴びせるものではないか。

§3-2 財産の使い方

例えば自己の才能によって財産を築きあげたとして、その金は使って快楽を得るべきだろうか?そうではない。財産は事故から知的生活を守る保険・防壁であるべきである。

自己の才能によって金を儲けた人は、必ずうぬぼれる。ここに、「芸術家」、「手職者」、「商人」、「先祖から金を相続した者」の4種類の人がいると考えてみよう。

芸術家

芸術家の才能はたいていはかないものである。すぐに才能は尽き、金も尽きる。そうしているうちに金を使い果たし、破滅する。

手職者

手職者は才能が衰えても、ものが作れなくなるところまではすぐにはいかないものである。さらに彼は人も雇えるから、お金を使っても金を使い果たすところまではいかない。

商人

商人にとっては才能ではなく、お金そのものがさらに利益を得るための手段であるから、お金を快楽のために使いすぎることはない。

相続者

相続者は、資本には一切手を付けず、利息のみによって暮らす。(“ごくつぶし”については次の章で述べる。)

このような、金の用途の違いは何から生まれるのだろうか?それは、困苦の経験の有無である。

貧しい時代を知っている者、例えば芸術家は、貧しくても何とか生きていけることを知っている。彼らは貧しさを恐れない。そのため、お金をあればあるだけ使ってしまう。

逆に、生まれた時から富裕の身であるもの、例えば相続者は、まだ見ぬ困苦を、空気が無くなるのと同じように恐れる。こうして、彼らはたいてい外から嫁いできた妻には資本を継がせず、利息のみを継がせる。そして、子孫にのみ資本を継がせるものである。

§3-1 海水

財産が多いことは幸福であろうか?そうとは限らない。

要求と財産とは相対的なものであるから、たとえ金持ちでも、要求が財産より大きければ満たされず、不幸を感じる。

要求はどんどん大きくなっていく。どうしてだろうか?

それは、人間が要求の増大に慣れてしまうからである。富は海水に似ている。それを飲めば飲むほど、喉が渇いてくる。

要求が「次第に」増大していくものであることは、貧乏人の例を見てもわかる。ある貧乏人が金持ちの莫大な財産を見ても、心を動かされることはない。現状とかけ離れすぎていて、ピンとこないからである。むしろ、この貧乏人はちょっとした富に対してはうらやましくて仕方がない反応を示す。

§2-4 天才の孤高

この世で最も幸福なのは、天才の知的生活である。

人間の能力は自然界の闘争のためにある。しかし、体力・筋力などは、闘争が終わるや否や持て余されるようになる。このため、俗人は刺激感性の享楽、スポーツを始めとし遊歴、跳躍、格闘、舞踊、撃剣、乗馬などにその能力を空費するのである。

天才とは知的・ 精神的能力 原文検索 が有り余っている人のことである。彼は安静と余暇さえ与えられれば、持て余した能力を、作品に注ぎ込むことが出来る。天才は知的生活が自分の至上の目的となるほど没頭し、ライフワークとなる。能力が有り余っていなければ、こうした完全な没頭は不可能である。

このような生活が最も幸福なのは、以下の3点による。

  • 喜び 自分の能力を最大限活用できる。没頭の間じゅう、喜びに満ち溢れている
  • 苦痛と退屈からの解放 外部の刺激に幸福の源泉を求めないので、苦痛が無い。しかも、高度な知性は退屈知らずでもある
  • 進歩向上 能力の発揮が空費されることなく、作品に結実するため、不断に進歩向上する生活となる

これに比べて、俗人の生は無限に満たされることのない肉体的享楽の獲得のため、屈辱的な苦痛に耐え、しかもそうした生活が円環のように死ぬまで続くものである。だから、人間の幸福には人のありかた(1)、とくに精神的享楽の能力の有無が決定的なのである。

§2-3 俗物(フィリステル/Philister)

俗物とは精神的な欲望をもたない人間で、精神的な享楽をもつということがない。俗物にとっての現実の享楽は感能的な享楽だけである。したがって牡蠣にシャンペンといったところが人生の花で、肉体的な快楽に寄与するものなら何でも手に入れるということが、人生の目的なのだ。しかも、この目的のために何のかんのと忙しければ、それでけっこう幸福なのだ。

しかしまだ俗物には俗物なりの虚栄心の享楽がある。

富か位階か、権勢や威力などで他人を凌ぎ、それによって他人に尊敬されるという意味の虚栄もあれば、同じ俗物どものなかでも傑出したやつと付き合って、虎の威を借りる狐のような気分にひたるという意味の虚栄もある。俗物はその求める相手も、精神的な欲望を満足させてくれる人でなく、肉体的な欲望を叶えてくれる人である。それどころか精神的な能力を見せつけられると、嫌悪か憎悪を感ずる。富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢のみによって測ろうとする。こういったことは精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。