The world is a set of representation.
Representation is what we can recognize in any way.
This is because we always recognize something when we see the world.
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The world is a set of representation.
Representation is what we can recognize in any way.
This is because we always recognize something when we see the world.
これまでの幸せを数えたら、あなたはすぐ幸せになれる。
出典:
解説:
この言葉を理解するには、ショーペンハウアー思想の「永遠の現在」という概念について解説が必要である。
意志は認識を欠いていて盲目なので、過去や未来の存在に気づかない。いや、本来意志としての世界には、過去や未来自体が存在しないとショーペンハウアーは説く。これが「永遠」と呼ばれる考え方である。プラトンの言葉を借り、
時間は永遠の彫像である
とも表現される。
ロジックは割愛するが、「永遠の現在」は、 休むことのない死 原文検索 であり、永遠の苦痛である。幸福とは、その苦痛を認識の力でごまかしているに過ぎないんだよというのが実はこの句のテーマである。
本当は”過去”など存在しないのに、認識は過去を美化して「マーヤーのヴェール」となり我々を欺く。過去の幻像から現在に眼を転じれば、やはり苦痛であることに何の変わりも無い。
だから、実は幸せとはその程度のことで、幻なのですよ、というのがショーペンハウアーの言いたかったことなのだ。
男の性欲がなくなれば全ての女から美は消え去るであろう。
出典:
ショーペンハウアーは、母親(ヨハンナ・ショーペンハウアー)との反目も手伝って女性に手厳しいが、単に批判をしているのではなく、女性の本質を見抜いた記述の評価は高い。しかしこれは少々弁護のしようの無い悪口と捉えられても仕方ないかも知れない。
もしかしたらショーペンハウアーからは本当に性欲が消え去っていて、純真に上記のようなことを疑問に思ったのかも知れない。結局は、謎である。
男同士は無関心に過ぎないが、女同士は生まれながらにして敵同士である。
出典:
ショーペンハウアーの考えでは、一夫一妻制は女性を不幸にする制度であった。それは、一夫多妻制の時代に比べ、男性が慎重に女性を選ぶようになったことで、「あぶれる」不幸な女性が増えたから、であると言う。彼は結局結婚しなかった。
ショーペンハウアーの名言。「女性とは」
女性とは、肝臓を持ちながら、胆嚢を持たない生物のようなものである。
出典:「女について」
解説:
ショーペンハウアーの女性蔑視は、もはや芸術的だ。女の嘘が上手いとは、日本でも昔からある俗説で、感情的に使われがちなフレーズ。価値観が近視眼的であることでそれを説明しようとしているのはそれよりは細かいというか、論理的ではある。
だが、胆嚢はさすがに酷いだろう。煽りが入っていると言える。
学者とは書物を読破した人、思想家とは世界という書物を直接読破した人のことである。
出典:
解説:
ショーペンハウアーが多読家であったことは、その著作に置ける引用の膨大さから伺えるが、常に他人の思考に乗っ取られないよう気をつけていた。
彼は思想家に独自の思想を生み出させ、芸術家に作品を産み落とさせるのは、この世界の「純粋」直感であると考えた。それに対し、読書とは、「他人の思考を頭の中で再生させること」であり、出来るだけ避けるべきことと考えた。
大切なのは普通の言葉で非凡なことをいうことである。
出典:
解説:
ショーペンハウアーの根本的な思索の態度を表した語。
このサイトの主著の要約からもわかるように、ショーペンハウアーの哲学はほとんどが普通の言葉からなっていて、独自の専門用語はほとんど無い。
そのおかげで、ショーペンハウアーの哲学は時代を超えて読み継がれるのかも知れない。
逆に、わかり易すぎることで学者からは無視されたり、アンチが続々と誕生したり、さらには浅いと考えられてしまうという運命をたどったが、ショーペンハウアー本人はそのようなことを恐れなかったようである。
この章の最後の部分には必ず非難が投げかけられるであろう。しかし、その非難は本質的で重要なものであり、むしろ受けて立とうと思う。
その非難とは、こうである。
「我々が意志を否定すれば、我々は無になってしまうではないか!」と。
しかし、もともと無とは相対的な概念なのではないだろうか?有と無とはお互いに相対的な概念であって、絶対的な「無」という概念などないのではなかろうか?(この部分は、老子第2章『有と無と相成す』を想起させる)
一般的に人が「有」だと考えているのは、表面的な、表象としての世界に過ぎない。しかし、その「鏡」は、我々が意志を否定した瞬間、砕け散ってしまうだろう。しかし、意志を否定した我々にとっては、「無」によって保障された安静こそが「有」であり、意志の肯定の世界に戻ることは、その安静が失われ「無」に帰す恐ろしいことなのである。
その安静の聖境は忘我とも、恍惚とも、有頂天とも、悟りを開くとも、神と合一するとも言われてきた。(この部分は、老子21章『道の物たる、ただ恍、ただ惚』を想起させる)
真実は、こういうことである。
我々がこれほどまでに無を嫌悪していること自体が、我々が生きんとする意志であることの証拠なのである。
我々は聖者の伝記を読むことで、心を慰めるべきである。なぜなら、聖者たちの存在(§68-3 聖者たち)こそが、この新しい「有」の世界の存在証明なのだから。インド人たちでさえ、無を嫌悪して、「ブラフマンへの参入」「ニルヴァーナへの帰依」などと言った言葉を使うが、もっと無を受け入れるべきなのである。
我々が意志を転換し終えた暁には、この太陽や銀河こそが無(§27-3 虚無なる宇宙)であり、静寂こそが真の世界となることだろう。
キリスト教が伝えようとしている大真理は、ひとつだけである。
それは、最初の人間が犯した原罪(意志の肯定)が、キリスト(意志の否定)により救済されるという教えである。
隣人愛はエゴイストを救済する。「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出す」のは意志を否定したからである。
最近では全く同じ思想をルターら純粋な福音派が唱えているが、教会はキリスト教のユダヤ教的な側面(聖書)のみにしがみついているが、この二つは歴史的な偶然からキリスト教に結び付いたにすぎず、福音の教えこそがキリスト教の本質なのである。
人間に自由意志は存在しない。しかし、認識により、意志の否定をする自由だけは残されている。
表象としての世界は、隅々まで根拠の原理に支配されている。根拠の原理からの独立性は、意志としての世界にしかあり得ないのである。
意志の肯定の先にある世界は、必然性に支配されている。思い通りにならないことが多く、苦悩も大きい。この究極は、動物の、弱肉強食の世界であり、地獄である。
しかし意志の否定の先にある世界では、我々は動機から解放される。意欲が無いからである。意欲が無くなると、我々の性格までもがひっくり返ったように感じられる。これが教会の言う「再生」、「恩寵」の力である。