§62-5 国家と法

国家と法は、人が不正をこうむることを防ぐためのものである。

人が不正を行った結果の享楽より、不正を被る側の苦痛が常に大きいものである。それを認識した人間理性が、苦痛の総和を最小化するために、エゴイズムの制限を法や国家として編み出したのである。

同じ不正への対抗手段とはいえ、道徳と国家は本質的に真逆のものである。正義が行き渡った状態は、誰も不正を行おうとしない。法が行き渡った状態は、誰も不正を被ることがない。

つまり、実は、法や国家の起源は、自分の意志を守るエゴイズムなのである。

だから、国家の中枢には無私の人々が就くことが望ましく、世襲君主制が一番マシである。

§62-4 正義

正義とは、不正に立ち向かうことである。不正が無ければ正義は存在しないように、消極的概念である。

不正によって被る不利益を防ぐためには、それを上回るだけの行為が必要であり、正当防衛によって相手を殺したとしても、それは正義であって不正ではない。ましてや、あらゆる暴力、策略、嘘が正義となりうる。

この考え方は、法に依らず不正を定義出来る。そのため、この不正の概念は、自然状態(ホッブズ)の人間ですら理解出来る。ゆえに、先験的、道徳的概念と言える。

§62-3 嘘

嘘とは相手の認識を偽造することで、自分の意志の肯定のために、他人の意志をを操作することである。従って、明示的に嘘を言っていなくても、意図があれば嘘である。

特に契約違反は直接相手の意志を自分の意志に奉仕させることで、完全な不正である。

同様に、暴力より策略による不正の方が愚劣である。

こうした、裏切りや不誠実が最も愚劣な不正と直観的に理解出来るわけは、個体化した人類、絆による統一を阻むからである。

§62-1 不正

あらゆる個体が意志を肯定することにより、不正が生まれる。不正とは、自分の意志の肯定のため、他人の利益を犠牲にすることだ。

不正ははなはだしきは人肉食、殺人、傷害に始まり、奴隷化、財産侵害、嘘と続く。

不正を行ったものが感じる良心の呵責は、意志が意志自身を喰らう、矛盾の直観である。

§61 エゴ

エゴイズムとは、自分のためなら他の全てを犠牲にしても良いという考えで、自然のままの人間の姿である。このことは、次の二つのことから説明がつく。

まず、意志にとって認識の全ては表象であり、意志の本質は自分の中にしか感じられないこと。

次に、自分が消えれば、あらゆる認識主観を失ってしまうことである。

エゴによる不和は、苦悩のうちでも大きなものである。我々はどのようにこの苦悩に対処すべきだろうか?

§60 エロス

ここからは、意志の肯定について論じる。

人間が自己保存に成功して、次に行う努力は種族の繁栄である。性欲を満たすことは最も積極的な意志の肯定である。

ヘシオドスやパルミデネスは、「エロスこそは万物の根本」であると言った。性欲には意志が最も強力に働くからである。

死は既に生が始まるときに決まっているから、意志を損なうものではない。意志は個体ではなく種族を保存する。意志は種族として、イデアとして、無規定の時間の中に現象する。

キリスト教には、根拠の原理から解放された箇所がある。それは原罪であり、アダムが性欲を満足させたことである。これは、生殖という種族の絆により、個体に分散してしまった人間が統一を回復するというイデアを教義にしたと言える。

各個体は意志の肯定としてアダムと同一であり、意志の否定としてキリストと同一である。これが救世主による救済という教義である。

§59 悲観と楽観

世界は偶然と誤謬に支配されている。

思考の国は不条理に支配されている。

芸術の国は凡庸さに支配されている。卓越したものは同世代の恨みを免れたずっと後で再発掘され、まるで地球外から来た隕石のように珍重される。

一生は苦難や災難に支配されている。自殺する人もいるくらいである。短さが生の最も善いところではないだろうか。

ダンテの神曲の地獄篇は、どの世界から材料をとってきたのだろうか?この世界である。どんな楽天家でも、外科手術室、監獄、拷問室、奴隷小屋、戦場、処刑場と連れ回せば、世の中について悟るだろう。ダンテの楽園には祖先や恋人や聖者ばかりで、純粋な歓喜が描かれていないのは材料が無かったためである。

人間はこうした苦悩に際して、自分に立ち帰るしかない。楽天主義は何も考えていない連中の、不条理な、放埓な考えである。

§58-2 退屈の排除

人生の活動には三つの極端がある。

  1. ラジュア=グナ 強烈な意欲と大きな情熱。偉大な人物に見られる
  2. サットヴァ=グナ 純粋認識によるイデアの認識。天才に見られる
  3. タマ=グナ 意志が眠りにつき、空虚で退屈な状態。

しかし、人はこれらのどれにもとどまることが出来ず、いや実際はどれかに近づくことすら滅多になく、3つの間をぐらつきながら転々とすることで小さな対象をがつがつと追い求める生を送っているのだ。

人は喜劇役者のように、欲望に突き動かされるままに、様々な苦労に満たされているが、苦労することには退屈を排除する力は無い。すると人間の精神は、迷信を生み出すようになった。そして、迷信と空想の中で精神力を浪費することで、退屈を避けるのである。

迷信は、生活のしやすい、インド、ギリシャ、ローマ、スペインなどの地域に多くみられる。

一生のほとんどを供え物、礼拝、願掛け、巡礼、聖像の飾りつけなどに空費していると、人生のいかなる幸運もこれら御本尊からの反応だと受け取られ、ついには錯覚の魅力によって、こういうものと交渉しているほうが現実のものと交渉するより面白くなってくる。救いと加護を求めているはずなのに、貴重な時間や精力を無駄に使ってしまい、救いはますます遠ざかってしまう。しかし、そのような人は、退屈の気晴らしが出来るという実に有難い御利益を賜っているのである。

§58-1 幸福

持続的な幸福はあり得ない。なぜかと言うと、幸福とは「苦痛が無いこと」だからである。

だから、幸福や目標を達成しても、享楽によっても、単に苦悩や願望から解放されただけである。むしろそこには退屈がやってくるのだ。

苦痛が積極的なのに対し、幸福は消極的である。だからこそ長続きする幸せなどというものはあり得ない。絶え間なく苦痛が生まれることは人生の本質だからである。

積極的な幸福が存在しないことは、どんな詩も劇も、幸福を得ようとして格闘し努力し戦闘するさまを描くだけで、永続的で円満な幸福それ自体を描くものではないことからもわかる。主人公が幸福を探り当てるや否や、幕を下ろしてしまうしか、文学にできることは無いのである。また永続的な幸福を描こうとした芸術、例えば田園詩、牧歌は、退屈である。

そもそも宇宙は空虚であり、全ては最終目標も無ければ終点も無い努力である。