要約
私がオランダでなしとげた最初の諸省察は余りに形而上学的で、一般の人々には受け入れがたいものとなってしまった。しかし私はあえてそれを話し、私が選んだ基礎が十分堅固かどうかを人々の判断に委ねなければならない。
かつて私は他人の意見に盲目的に従う必要がある場合もあると主張したが、真理の探求に専念した今、逆に全てを疑う必要があった。少しでも疑えるものは即座に虚偽として破棄した。全てを破棄したあとで、私は疑う余地のない何かを確信できると信じた。
全てを疑うとは、具体的には以下の通りである。
- 感覚はしばしば我々を騙すから、どんなものでも感覚通りには存在しない
- 単純な幾何学でさえ、推論を間違える場合があるのだから、自分の「論証」と全ての論拠も虚偽である
- 自分の精神のなかの全ての思想は、眠っているときの夢と同様に虚偽である
しかしその後ですぐに私はつぎのことに気がついた。このように全てを虚偽と考えようと欲していた間にも、そう考えている「私」はどうしても何ものかでなければならないということであった。それは、
「わたしは考える、だから私は存在する(我思う、ゆえに我有り)」
ということだった。この真理は、懐疑論者のどんなに途方もない仮定によっても揺らがせることが出来なかった。
私はこれを、哲学の第一原理として何の懸念もなく受け容れることができると判断した。
解説
コギト/cogito=私は考える
エルゴ/ergo=だから
スム/sum=私は存在する
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