要約
前述の通り、私は全てを疑うことに決めたが、逆にそれは自らの不完全性の属性であると認識していた。真理を知ることは誤謬を除くことよりも優っており、「完全な存在」の属性であると考えた。
私より完全ではない物質、たとえば天、地、光、熱などならば、不完全な私であっても認識し、それに関して思想を持つことが出来る。つまり、それらの認識や思想が真であれば、私の本質から生じたと言える。逆に偽であれば、それは虚無=私の欠点から生じたと言える。
しかし私は完全な存在をも認識し、それに関して思想を持っている。しかし不完全な私になぜそれが可能であるのだろうか?私は、私より完全なある本質が私にそれを可能にさせているのだと明証的に直観したのだ。
完全な存在の概念が、偽の認識と同様に、虚無や私の欠点から生じたという主張は不可能である。真の認識と同様に、不完全な私自身から生じたとするのも無理がある。
すると、完全な存在の概念は、私よりも真に完全で、しかも不完全な私がそれについて若干の観念しか持ち得ないあるひとつの本質、すなわち神によって、私のなかに置かれたとしか考えられない。
そして、神自身の存在も次のように証明される。私は自分から遠い完全性を知っているのだから、私は唯一の存在ではなく、私が依存し私の持っている部分的な完全性の起源である、神もまた存在しなくてはならないのだ。
なぜなら、もし私が自分の力で完全性を得ることが出来るなら、同じ方法で、私は全ての種類の完全性を得ることが可能で、私は無限で、永遠で、不易で、全知全能な、神に匹敵する完全性を得るだろう。そうではないから、やはり完全性の起源が存在するのだ。
完全性の起源たる神には、何らかの不完全さを示すようなものは無いはずだ。私は、懐疑、無常、悲哀のようなものは、忌避されるもので、神のうちには存在しえないと思った。
以上のほかに私は感覚的で、物体的な事物についての概念を持っていた。自分が見たり、想像するものが仮に存在しないとしても、自分は夢を見ることが可能だから、それらの概念が私の思惟のなかに存在するのは確実であった。
また、神は物質と精神とから構成されてはいない。
あるものが合成されたものであるということは依存と不完全さを意味する。
人間は叡智的性質(精神)と物質的性質の合成であるが、神は完全であるから、神はこれらのふたつの本性の合成ではない。
むしろ、世界にあるあらゆる物体や叡智の存在が、神の力に依存しながら存在しているのだ。
解説
神の存在証明の根拠の1つめは、人間がアプリオリに「完全な存在の概念」を知らされていることである。
なぜ人間がそうした概念を把握出来るのかは、確かに不思議なことではある。
ただ、それだけから神の存在証明が可能だろうか?