要約
(承前)では私自身はどうか?もし私がただ1人の師しか持たなかったとしたら、私は師の追従者で満足しただろう。
しかし、最後まで私は、この人の意見が最高だと思われるような人を選び出すことが出来なかったのだ。
なぜなら、私は多様な経験をしたおかげで、何か一つの意見に固執するということが無くなったからだ。習慣や実例によってのみ判断することや、1人の人間のある一時点の意見のみに賛成することは愚かなことである。
このことを私は以下のことから学んだ。
- 人間の想像力には限界があり、人間の想像出来るものはすでに誰かが思いついている。「その人にしかないアイディア」など無い。
- 旅行で出会った、我々と真逆の意見を持っている人々は、野蛮で未開であるどころか、我々と同様かそれ以上に、理性を働かせている。
- 生活環境の影響の大きさ。同じ精神を持つ同じ人間でも、育つ場所によって全く別の人間になる。
- ヨーロッパ人の間に生きるか
- 中国人の間に生きるか
- 大食い人種の間に生きるか
- 流行の儚さ。十年前や十年後の流行が現在ではいかに突飛で滑稽に見えるか。
結論として、私は自分で自分自身を導いていくしかないと思った。私は闇のなかを独り歩く人間のように極めてゆっくりと進み、全てのことに周到な注意を払ったので、ほんの少ししか前進しなかったが、転ばなかった。
私は、全ての意見からの脱却に先立って、自分の著作の草案を立て、「全ての事物の認識」に到達する真の方法を探求するため、十分の時間を費したのであった。
解説
デカルトの思考の柔軟さと視野の広さは、不思議なほどである。中国の老子の説く「聖人」は、全ての真理を相対的なものと知り、びくびくと怯えるかのように、また冬の川を渡るかのように何事にも慎重であるという。デカルトは老子の聖人像に近いのかもしれない。