§110 認識の起源

以下は全て誤謬である。

  • 永遠なるものが存在する
  • 二つのものが全く等しいという事象が存在する
  • 事物や物体が外見どおりに存在する
  • 自由意志が存在する
  • 自分にとって善なるものの普遍的な善性

知性は膨大な時間を費やして、このような誤謬ばかりを生み出してきたのだ。ただし、そうした誤謬のうちいくつかがたまたま生存の役に立って、適者生存の原理で受け継がれてきたのだ。

やがて、人類は真理にたどり着いた。だがそのときにはもう、生存のための誤謬たちが血肉として同化された後だった。

一部の自己欺瞞的な思想家たち(※おそらくショーペンハウアーが含まれる)は、真理や純粋認識を生きることが出来ると考えた。そして、生の衝動の威力を否定した。

しかし、認識の上に述べた誤謬や太古の衝動への依存、誤謬の生存への寄与、知的な遊戯衝動の存在などが明らかになってきたことで、ついに真理をめぐる闘争が、他の欲求と融合した。認識にとって「悪い」とされてきた本能が、真理をめぐる闘争に参加したのだ。すなわち、真理への衝動もまた、生を維持する力であることがいまや実証された。

思想家とは、真理への衝動と生を維持する誤謬が戦闘の火蓋を切る戦場である。

§109 用心

世界を有機体とみなす考えを信じるな。

世界を機械とみなす考えを信じるな。

世界が生の衝動を持つという考えを信じるな。

永遠の存在を信じるな。全ての存在は生と死とともにある。

こうした考えを信じる人間は、神の影に目を曇らされている。いつになったら我々は神の過保護から解放されるのだろうか?いつになったら我々は、自然に帰ることが出来るのだろうか?

(自然に帰る=『悲劇の誕生』§8のサテュロスの章を参照)