§5 ディオニュソスによる抒情詩人アルキロコスの誕生

後に悲劇に発展する萌芽が、ギリシア世界において最初に明確な姿を現わしはじめるのはどこだろうか。

ホメロスは沈思する白髪の夢想家であり、アポロ的・素朴芸術家の典型であったが、彼はいま、狂暴に人生の中を暴れまわる抒情詩人、アルキロコスの情熱的な精神を見て、目をみはる。

シラーは詩作活動に先立つ準備状態は、秩序だった思想ではなく、むしろある音楽的な気分であったと告白している。抒情詩人は、まずディオニュソス的芸術家である。ところが、この音楽が抒情詩人の目に見えるようになるのは、アポロ的な夢の作用のもとにおいてである。

リュカムベースの娘に狂おしい愛を告白し、同時に蔑みのことばを投げつけ、酩酊し、狂気乱舞する姿。陶酔した熱狂者アルキロコスは、すでにもう人間アルキロコスではない。世界精霊である意志が自己の根源的苦痛を、人間アルキロコスという比喩において、象徴的に表現したものだ。

抒情詩人が何かということは、ショーペンハウアーにとっても難問であった。私の意見に反し、ショーペンハウアーは、歌謡の独特な本質は、非審美的と審美的という二つの状態の混合と錯綜だとしている。

「歌う者の意識を占めているものは、意志の主体、自己の意欲である。
しかし、これと並行して、歌う者は周囲の自然をながめ、自己自身を純粋な認識主体として自覚する。
このはなはだしく入り混じり分離した心情状態そのものの複写が純粋な歌謡である」

芸術を分類するにあたって、ショーペンハウアーでさえもが、主観的なものと客観的なものという対立に捉われているが、我々はむしろ、主観、客観という対立そのものがそもそも美学においては場違いであることを主張しておきたい。主観すなわち意欲する個体、エゴイスティックな目的を追求する個体、こんなものは芸術の敵でこそあれ、芸術の根源であると考えることはできないからだ。

ひとり天才だけは、芸術的生産という行為において世界のあの根源的な芸術衝動と融け合うかぎりにおいてのみ、芸術の永遠の本質について幾分でも知るところがあるのである。

§4 アポロ的芸術からディオニュソス的芸術へ

要約

真の存在すなわち意志は、苦悩するもの・矛盾撞着に満ちたものである。
意志を救済するためには、心を魅了する幻像や仮象を必要とする。

夢を見るのが快感なのは、意志から生じる欲求がより高度な満足を得るために、個体などの表象のさらに上の仮象を求めているからである。夢は仮象の仮象である。

アポロの力により、個人は、幻想を静かに観ずることにふけり、大海のまっただ中でも漂う小舟の上に安らかにすわっていられるように、悲惨な生を生きられることになった。個体化のこの神化という作用を得るために、ギリシア的な意味における節度が要求された。

これに反して、慢心と過度とは、非アポロ的領域の憎むべき魔物であった。
慢心と過度とはアポロ以前の時代の、巨人時代、すなわち蛮族世界の特性として考えられていた。
アポロ的ギリシア人にしてみれば、ディオニュソス的なものが巻き起こした作用にしても、やはり「巨人的」で「野蛮的」であると思われた。

しかし、ギリシア人は、一切の美と節度とを備えているのにも関わらず、彼の全存在が苦悩と認識を覆い隠した地底の上に立っていることを分かっていたのだ。ディオニュソス祭の魔法の調べが、この覆いをはぎ取った。そしてアポロは、ディオニュソスなしでは生きていくことが出来ないことが証明されたのだ。「巨人的なもの」と「野蛮的なもの」とは、結局、アポロ的なものと同じ程度に必要な事だったのだ!

こうして歴史を振り返れば、ディオニュソス的なものとアポロ的なものとは、幾度も新たな産児を設けて相互に高め合いながらギリシア的な本質を支配してきた。まず巨人の闘争や辛辣な民間哲学をもつ「青銅」時代があり、その中から、アポロ的な美の衝動に支配されたホメロス的世界が生まれた。
しかしこの「素朴」なドリス式芸術の時期は、ディオニュソス的なものの到来とともに終わり、アッチカ悲劇、劇形式の酒神讃歌の誉れ高い崇高な作品がわれわれの眼前に示されることになったのだ。

解説

真の存在=意志 というのは、ショーペンハウアーの哲学からの引用である。ショーペンハウアーは、「世界は意志と表象のみからなる」と説いた。意志は盲目的な飢餓の衝動に突き動かされ、無意味な努力を永遠に続けようとする。ショーペンハウアー哲学では、表象の純粋認識だけが意志の苦痛を救いうるとされ、ほぼほぼこのアポロ芸術論と同じである。

このころのニーチェはショーペンハウアーに多大な影響を受けているが、後期決裂し、激しく批判を加えるようになる。

何故かというと、後期ニーチェは意志の存在自体を否定し、偶然が支配する永劫回帰の哲学を発見したからである。偶然と熱狂的な高貴さに鼓舞される超人思想は、間違いなくディオニュソス的芸術の延長線上にある。

§3 アポロによるホメロスの誕生

アポロ的文化はどのような土台の上に成り立ったのだろうか。

アポロ的衝動によって産み出されたオリンポスの神々には、他の宗教の神と違って、禁欲や義務を思いおこさせるようなものは何ひとつない。彼らは豊満な、勝ち誇った存在なのである。

ギリシアの民間の哲理は、シレノスに次のように語らせている。

「御身にとって最高のことは、手の届かぬところにある。
それは生まれなかったこと、存在しないこと、なにものでもないことなのだ。
しかし、御身にとって次に善いこととはすぐに死ぬことだ。」

このような哲理にたいして、オリンポスの勝ち誇った神々の世界はいかなる関係にあるのだろう?
神々は、人問生活を身をもって生きることにより、人間生活を是認しているのである。

ギリシア人は人生の悲惨さをよく知っていた。世界の深淵と、苦悩の敏感な感受能力を徹底的に克服するためには、楽しい妄想による眩惑と、喜びに溢れた幻影の群れの助けを必要としたのである。自然という巨人的な力に対する大きな不信は、ギリシア人によって、オリンポスの神々というあの芸術的な中間世界を通して克服されてきたのである。

恐怖という原始的暴君的な神々の秩序から、歓喜というオリンポスの神々の秩序が生み出されるに至ったのは、ゆっくりした経過をたどりつつアポロ的な美の衝動を通しておこなわれたことである。さながら棘のある藪の中から、薔薇の花が咲き出るのにこれは似ている。

シラーの「素朴な芸術」という概念があるが、これは決して単純な、自然発生的な状態のことを言うのではない。
芸術上の「素朴」といえば、アポロ的文化の最高の作用のことをいうのだと、われわれは考えている。
美をこのように映出することによって、ギリシア的「意志」は、苦悩に対する才能、苦悩を知恵によって処する才能という、およそ芸術的な才能とは相関的な天分に対して戦いを挑んだのであった。
そして、その勝利の記念碑として、われわれの目の前に立っているのがホメロス、素朴な芸術家なのである。

§2 ギリシャにおけるディオニュソス的なもの

我々は、アポロ的なものとディオニュソス的なものとを、芸術家という人間の個体ではなく、自然そのものからほとばしり出る芸術的な衝動として考察した。芸術家は、この衝動を模倣しているに過ぎない。

ギリシア人は、アポロ的なものの模倣に優れていた。

まず、ギリシア人の目は信じがたいほど明確で確実な彫塑的能力をそなえ、色彩に対し素直な感覚をもっていた。それと同等の一連の場面がギリシア人の夢の中にもあったはずである。これがホメロス的ギリシア世界である。

しかし、ギリシア人によるディオニュソス的なものの模倣は、野蛮人のそれとははっきり異なっていた。

野蛮人においては、並みはずれた性的放縦が祝祭の中心であった。
ギリシア人はその熱病的な興奮に対して、威容を誇って立ちはだかっていたアポロの姿によって、しばらくの間は防御していたが、とうとうその力に屈し、和議を講じたのである。

しかし、この和議の結果、ギリシア人におけるディオニュソス的なものは変化した。
人間を虎や猿に退化させるバビロンのサカイエンの祭儀とくらべ、ギリシア祭典は光明化の祝日であった。
わずかにギリシア祭典に引き継がれたのは、ディオニュソス的熱狂者の情念の中の不思議な混合と二重性である。それは、苦痛が快感を呼び起こし、歓喜が苦痛を溢れさせる現象だ。

それは、全人間が一種族として、いや、自然の精霊として融合した姿である。
自然の本質は口、顔面、言葉、四肢を使った全身的象徴法によって象徴的に表現された。

このような気分をもつ熱狂者群の歌や踊りは、ホメロス的ギリシア世界にとっては、前代未聞のもので、恐怖と戦慄とをよびおこした。
自分たちも一皮むけば、人間でなくなるのではないのかという恐怖を。

§1-3 陶酔

アポロの「個体化の原理」、夢の世界が打ち壊されてしまうと、人間の根底から歓喜あふれる恍惚感が湧き上がってくる。

あらゆる原始民族が讃えている麻酔の飲み物の作用。春の力強い訪れ。それらにより、ディオニュソス的な興奮が目覚め、主観は忘却へと消え去っていく。

ドイツ中世においても、ディオニュソス的な強烈な力に捕らえられた群衆が、次第にその数を増しつつ、歌い踊りながら、村から村へと波打っていった。
ディオニュソス的なものの魔力のもとでは、人間と人間の結びつきが回復されるばかりではない。自然と人問が、和解の祭典を祝うのである。いまや、奴隷は自由人の歌をうたい踊り、自分がより高次の共同体の一員であることを表明する。

人間はもはや芸術家ではない。彼は芸術品となっている。

このような熱狂者の群れは、ギリシア世界にとっては前代未聞のものであった。ディオニュソス的音楽は、ギリシア世界に恐怖と戦慄とを呼び起こしたのだ。

§1-2 夢

夢の世界の美しい仮象は、あらゆる造形芸術の前提である。夢の世界において、我々は物の形の直接的な理解を楽しむ。

芸術的な人間は、夢の現実に目を注ぐ。哲学者は、実生活を仮象であり夢の世界であると考える。彼らは夢から人生の意味を読みとり、その移ろいの中で人生の修練を積むのである。深い快感と歓喜に満ちた欲求を持って夢を経験することは、我々のもっとも内なる欲求であり、ギリシア人もこの欲求をアポロのうちに表現している。

語源的にいえば「照りかがやく者」、つまり光の神であるアポロは、内なる幻想世界の美しい仮象をも支配する。

ショーペンハウアーは、苦悩の世界のまっただ中で人間が生きられるのは、個体化の原理、つまり夢という仮象に支えられているからであると表現した。

だからアポロそのものを、「個体化の原理」の儚い神像とよぶこともできるだろう。

§1-1 ふたつの芸術衝動

芸術は、アポロ的なものディオニュソス的なものとの二重性によって進展して行く。

ギリシア世界には、造形家の芸術であるアポロ的芸術と、音楽という非造形的芸術であるディオニュソス的芸術との間に、巨大な対立がみとめられる。

このふたつの衝動をさらにわかりやすくするために、われわれはさしあたり、これを夢と陶酔という別々の芸術世界として考えてみることにしよう。

序文 〜悲劇の誕生〜

悲劇の誕生』はニーチェ第1の著書。1872年に出版された。この記事はその序文の要約である

リヒャルト・ワーグナー(作曲家・ 1813年 – 1883年)に捧げられた序文の要約

本書の思想は、怒りや誤解を引き起こすであろうことは十分分かっています。本書の随所に、私の瞑想的な無上の歓喜の痕跡があると思います。

普仏戦争のさなかで、芸術への傾倒は、心浮かれた遊戯だと非難される向きもあります。世間では、戦争に代表される生存の厳粛さに対して、芸術はおまけだと考えられています。

しかし私は、芸術こそ人生の最上の目的であり、形而上的な活動であると確信する次第です。

序文 ~善悪の彼岸~

善悪の彼岸』はニーチェ第7の著書。1886年に出版された。この記事はその序文の要約である

真理は女のようなものではないか?

独断的で独りよがりな哲学者にとって手が届かないという意味では。

独断的な哲学は、高尚なふりをした子供騙しか、素人の遊びに過ぎない。独断的な哲学とは、迷信や、あまりに個人的で人間的で狭い事実の無謀な一般化に依存した哲学のことである。アジアのヴェーダンタ哲学も、プラトンの哲学も、結局は独断的な哲学だったのだ。

プラトンが生み出した、純粋精神と善ほど最悪なものは無い。さらに、この考え方が通俗化されたものが、キリスト教道徳だった。これらの害悪との闘いが、ヨーロッパに、かつてない精神的なパワーの蓄積をもたらしたのだ。この弓の緊張を邪魔しようとして、イエズス会による介入と、出版と新聞による民主的啓蒙が行われた(新聞の発明こそはドイツ人の黒歴史と言える失敗であろう)。

しかし我々はイエズス会士でもないし民主主義者でもない。我々には力が残されており、狙うべき標的ももっているのだ!