§4 アポロ的芸術からディオニュソス的芸術へ

要約

真の存在すなわち意志は、苦悩するもの・矛盾撞着に満ちたものである。
意志を救済するためには、心を魅了する幻像や仮象を必要とする。

夢を見るのが快感なのは、意志から生じる欲求がより高度な満足を得るために、個体などの表象のさらに上の仮象を求めているからである。夢は仮象の仮象である。

アポロの力により、個人は、幻想を静かに観ずることにふけり、大海のまっただ中でも漂う小舟の上に安らかにすわっていられるように、悲惨な生を生きられることになった。個体化のこの神化という作用を得るために、ギリシア的な意味における節度が要求された。

これに反して、慢心と過度とは、非アポロ的領域の憎むべき魔物であった。
慢心と過度とはアポロ以前の時代の、巨人時代、すなわち蛮族世界の特性として考えられていた。
アポロ的ギリシア人にしてみれば、ディオニュソス的なものが巻き起こした作用にしても、やはり「巨人的」で「野蛮的」であると思われた。

しかし、ギリシア人は、一切の美と節度とを備えているのにも関わらず、彼の全存在が苦悩と認識を覆い隠した地底の上に立っていることを分かっていたのだ。ディオニュソス祭の魔法の調べが、この覆いをはぎ取った。そしてアポロは、ディオニュソスなしでは生きていくことが出来ないことが証明されたのだ。「巨人的なもの」と「野蛮的なもの」とは、結局、アポロ的なものと同じ程度に必要な事だったのだ!

こうして歴史を振り返れば、ディオニュソス的なものとアポロ的なものとは、幾度も新たな産児を設けて相互に高め合いながらギリシア的な本質を支配してきた。まず巨人の闘争や辛辣な民間哲学をもつ「青銅」時代があり、その中から、アポロ的な美の衝動に支配されたホメロス的世界が生まれた。
しかしこの「素朴」なドリス式芸術の時期は、ディオニュソス的なものの到来とともに終わり、アッチカ悲劇、劇形式の酒神讃歌の誉れ高い崇高な作品がわれわれの眼前に示されることになったのだ。

解説

真の存在=意志 というのは、ショーペンハウアーの哲学からの引用である。ショーペンハウアーは、「世界は意志と表象のみからなる」と説いた。意志は盲目的な飢餓の衝動に突き動かされ、無意味な努力を永遠に続けようとする。ショーペンハウアー哲学では、表象の純粋認識だけが意志の苦痛を救いうるとされ、ほぼほぼこのアポロ芸術論と同じである。

このころのニーチェはショーペンハウアーに多大な影響を受けているが、後期決裂し、激しく批判を加えるようになる。

何故かというと、後期ニーチェは意志の存在自体を否定し、偶然が支配する永劫回帰の哲学を発見したからである。偶然と熱狂的な高貴さに鼓舞される超人思想は、間違いなくディオニュソス的芸術の延長線上にある。

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