§7 サテュロスのコーラス

悲劇は悲劇のコーラスから発生した。

シュレーゲルによれば、コーラスとは観客大衆の精華にして真髄、すなわち「理想的観客」と考えるほうがふさわしいと言う。われわれのよく知っている悲劇の観衆というものを悲劇のコーラスと比較してみて、ちょっとでも考えてみれば、呆れ返るばかりだから、この意見は採用しない。そもそも、伝承の示している、舞台を伴わぬコーラスこそが、コーラスが理想的観客であるという言説と矛盾している。

シラーはコーラスを生ける城壁とみなした。
悲劇は、詩的自由を守るためにコーラスによって自己を現実の世界から遮断したのだ、というのである。
「自分が『メッーシーナの花嫁』にコーラスを採用したのは、芸術におけるいかなる自然主義に対しても宣戦布告するためである」とシラーは述べている。

このコーラス隊が歩むのは「反現実的」な足場の上であって、それは現実世界の遊歩道の上に高々とかかげられた足場である。
ギリシア人は、このコーラス隊のために架空の自然状態をあらわす吊り桟敷をもうけ、その上に架空の自然的存在者サテュロスをのせた。
ギリシア悲劇はこの基礎の上に成長を遂げた。最初から現実の煩瑣な模写にわずらわされることがなかったからだ。

ギリシアの文明人は、サテュロスのコーラスをまのあたりにして自分自身が打ち消されるのを感じたのだ、と私は思う。
仏教的な意志の否定にあこがれるという危険に直面しているギリシア人は、このコーラスによってみずからの心を慰める。

ディオニュソス的人間はハムレットに似ている。
両者はかつて事物の本質を正しく見抜いた。彼らは運命を認識した。認識は行動を殺す。
行動することにおいて、このように意志が極度に危機に瀕したとき、意志を救い、治療する魔術師として近づいてくるのが、芸術である。
芸術は、恐怖には崇高なものとなって、現実への嘔吐感には喜劇的なものとなって人間を解放する。

酒神讃歌を歌うサテュロスのコーラスはギリシア芸術の救済行為なのである。

§6 音楽の精神

アルキロコス(詩人・傭兵 紀元前680年頃 – 紀元前645年頃)は、民謡を文学に導入し、この業績によってギリシア人に広く認められ、ホメロスと並ぶ唯一の地位を与えられた。
旋律が民衆から素朴な評価をうけることは、重要なことであるし、優れた旋律は、さまざまな歌詞の付け方に耐えうる普遍性をそなえている。

そのため、民謡の歌詞においては、言語が音楽を模倣しようとしてきわめて強く緊張している。
この緊張のゆえに、ホメロス的世界とは相容れない新しい詩の世界が始まるのである。

類似の例として、ベートーヴェンの交響曲がある。
ベートーヴェンの交響曲をきくひとりびとりの聴衆は、形象によって曲の印象を語りたいという思いに駆られるのだが、楽曲自体はもっと多彩で支離滅裂である。
たとえばある交響曲を『田園』とよび、ある楽章を「小川のほとりの情景」、他の楽章を「農夫のたのしいつどい」と名づけても、それはやはり、単なる比喩にすぎず、音楽によって模倣された対象ではない。

 

ショーペンハウアーの哲学によれば、音楽は形象と概念との鏡に照らされて、意志として現象する。
抒情詩人はアポロ的天才として、音楽を意志という形象によって解釈する。

つまり、第一に、抒情詩は音楽の精神に依存しており、そして第二に、音楽自体はその完全な無制約性のゆえに形象や概念を必要とせず、むしろ形象や概念がかたわらにあることを我慢しているにすぎない。
だから、音楽の世界象徴法にたいしては、単なる比喩である言語では太刀打ちできず、いかなる抒情的雄弁の粋をもってしても、音楽の精神には、われわれは一歩たりとも近づくことができないのだ。