§109 用心

世界を有機体とみなす考えを信じるな。

世界を機械とみなす考えを信じるな。

世界が生の衝動を持つという考えを信じるな。

永遠の存在を信じるな。全ての存在は生と死とともにある。

こうした考えを信じる人間は、神の影に目を曇らされている。いつになったら我々は神の過保護から解放されるのだろうか?いつになったら我々は、自然に帰ることが出来るのだろうか?

(自然に帰る=『悲劇の誕生』§8のサテュロスの章を参照)

§43 法律が語るもの

法律はその民族の本質ではなく、その民族にとっての異端が何であるかを語る。

イスラムのワッハーブ派では殺人さえ死罪にならないのに、他の神を崇めれば死罪になるし、ローマでは女性が飲酒することが死罪とされた。ローマで恐れられたのは、女性の姦淫だけではなく、飲酒がもたらすディオニュソス的な状態であった。

§5 ディオニュソスによる抒情詩人アルキロコスの誕生

後に悲劇に発展する萌芽が、ギリシア世界において最初に明確な姿を現わしはじめるのはどこだろうか。

ホメロスは沈思する白髪の夢想家であり、アポロ的・素朴芸術家の典型であったが、彼はいま、狂暴に人生の中を暴れまわる抒情詩人、アルキロコスの情熱的な精神を見て、目をみはる。

シラーは詩作活動に先立つ準備状態は、秩序だった思想ではなく、むしろある音楽的な気分であったと告白している。抒情詩人は、まずディオニュソス的芸術家である。ところが、この音楽が抒情詩人の目に見えるようになるのは、アポロ的な夢の作用のもとにおいてである。

リュカムベースの娘に狂おしい愛を告白し、同時に蔑みのことばを投げつけ、酩酊し、狂気乱舞する姿。陶酔した熱狂者アルキロコスは、すでにもう人間アルキロコスではない。世界精霊である意志が自己の根源的苦痛を、人間アルキロコスという比喩において、象徴的に表現したものだ。

抒情詩人が何かということは、ショーペンハウアーにとっても難問であった。私の意見に反し、ショーペンハウアーは、歌謡の独特な本質は、非審美的と審美的という二つの状態の混合と錯綜だとしている。

「歌う者の意識を占めているものは、意志の主体、自己の意欲である。
しかし、これと並行して、歌う者は周囲の自然をながめ、自己自身を純粋な認識主体として自覚する。
このはなはだしく入り混じり分離した心情状態そのものの複写が純粋な歌謡である」

芸術を分類するにあたって、ショーペンハウアーでさえもが、主観的なものと客観的なものという対立に捉われているが、我々はむしろ、主観、客観という対立そのものがそもそも美学においては場違いであることを主張しておきたい。主観すなわち意欲する個体、エゴイスティックな目的を追求する個体、こんなものは芸術の敵でこそあれ、芸術の根源であると考えることはできないからだ。

ひとり天才だけは、芸術的生産という行為において世界のあの根源的な芸術衝動と融け合うかぎりにおいてのみ、芸術の永遠の本質について幾分でも知るところがあるのである。

§4 アポロ的芸術からディオニュソス的芸術へ

要約

真の存在すなわち意志は、苦悩するもの・矛盾撞着に満ちたものである。
意志を救済するためには、心を魅了する幻像や仮象を必要とする。

夢を見るのが快感なのは、意志から生じる欲求がより高度な満足を得るために、個体などの表象のさらに上の仮象を求めているからである。夢は仮象の仮象である。

アポロの力により、個人は、幻想を静かに観ずることにふけり、大海のまっただ中でも漂う小舟の上に安らかにすわっていられるように、悲惨な生を生きられることになった。個体化のこの神化という作用を得るために、ギリシア的な意味における節度が要求された。

これに反して、慢心と過度とは、非アポロ的領域の憎むべき魔物であった。
慢心と過度とはアポロ以前の時代の、巨人時代、すなわち蛮族世界の特性として考えられていた。
アポロ的ギリシア人にしてみれば、ディオニュソス的なものが巻き起こした作用にしても、やはり「巨人的」で「野蛮的」であると思われた。

しかし、ギリシア人は、一切の美と節度とを備えているのにも関わらず、彼の全存在が苦悩と認識を覆い隠した地底の上に立っていることを分かっていたのだ。ディオニュソス祭の魔法の調べが、この覆いをはぎ取った。そしてアポロは、ディオニュソスなしでは生きていくことが出来ないことが証明されたのだ。「巨人的なもの」と「野蛮的なもの」とは、結局、アポロ的なものと同じ程度に必要な事だったのだ!

こうして歴史を振り返れば、ディオニュソス的なものとアポロ的なものとは、幾度も新たな産児を設けて相互に高め合いながらギリシア的な本質を支配してきた。まず巨人の闘争や辛辣な民間哲学をもつ「青銅」時代があり、その中から、アポロ的な美の衝動に支配されたホメロス的世界が生まれた。
しかしこの「素朴」なドリス式芸術の時期は、ディオニュソス的なものの到来とともに終わり、アッチカ悲劇、劇形式の酒神讃歌の誉れ高い崇高な作品がわれわれの眼前に示されることになったのだ。

解説

真の存在=意志 というのは、ショーペンハウアーの哲学からの引用である。ショーペンハウアーは、「世界は意志と表象のみからなる」と説いた。意志は盲目的な飢餓の衝動に突き動かされ、無意味な努力を永遠に続けようとする。ショーペンハウアー哲学では、表象の純粋認識だけが意志の苦痛を救いうるとされ、ほぼほぼこのアポロ芸術論と同じである。

このころのニーチェはショーペンハウアーに多大な影響を受けているが、後期決裂し、激しく批判を加えるようになる。

何故かというと、後期ニーチェは意志の存在自体を否定し、偶然が支配する永劫回帰の哲学を発見したからである。偶然と熱狂的な高貴さに鼓舞される超人思想は、間違いなくディオニュソス的芸術の延長線上にある。

§2 ギリシャにおけるディオニュソス的なもの

我々は、アポロ的なものとディオニュソス的なものとを、芸術家という人間の個体ではなく、自然そのものからほとばしり出る芸術的な衝動として考察した。芸術家は、この衝動を模倣しているに過ぎない。

ギリシア人は、アポロ的なものの模倣に優れていた。

まず、ギリシア人の目は信じがたいほど明確で確実な彫塑的能力をそなえ、色彩に対し素直な感覚をもっていた。それと同等の一連の場面がギリシア人の夢の中にもあったはずである。これがホメロス的ギリシア世界である。

しかし、ギリシア人によるディオニュソス的なものの模倣は、野蛮人のそれとははっきり異なっていた。

野蛮人においては、並みはずれた性的放縦が祝祭の中心であった。
ギリシア人はその熱病的な興奮に対して、威容を誇って立ちはだかっていたアポロの姿によって、しばらくの間は防御していたが、とうとうその力に屈し、和議を講じたのである。

しかし、この和議の結果、ギリシア人におけるディオニュソス的なものは変化した。
人間を虎や猿に退化させるバビロンのサカイエンの祭儀とくらべ、ギリシア祭典は光明化の祝日であった。
わずかにギリシア祭典に引き継がれたのは、ディオニュソス的熱狂者の情念の中の不思議な混合と二重性である。それは、苦痛が快感を呼び起こし、歓喜が苦痛を溢れさせる現象だ。

それは、全人間が一種族として、いや、自然の精霊として融合した姿である。
自然の本質は口、顔面、言葉、四肢を使った全身的象徴法によって象徴的に表現された。

このような気分をもつ熱狂者群の歌や踊りは、ホメロス的ギリシア世界にとっては、前代未聞のもので、恐怖と戦慄とをよびおこした。
自分たちも一皮むけば、人間でなくなるのではないのかという恐怖を。

§1-3 陶酔

アポロの「個体化の原理」、夢の世界が打ち壊されてしまうと、人間の根底から歓喜あふれる恍惚感が湧き上がってくる。

あらゆる原始民族が讃えている麻酔の飲み物の作用。春の力強い訪れ。それらにより、ディオニュソス的な興奮が目覚め、主観は忘却へと消え去っていく。

ドイツ中世においても、ディオニュソス的な強烈な力に捕らえられた群衆が、次第にその数を増しつつ、歌い踊りながら、村から村へと波打っていった。
ディオニュソス的なものの魔力のもとでは、人間と人間の結びつきが回復されるばかりではない。自然と人問が、和解の祭典を祝うのである。いまや、奴隷は自由人の歌をうたい踊り、自分がより高次の共同体の一員であることを表明する。

人間はもはや芸術家ではない。彼は芸術品となっている。

このような熱狂者の群れは、ギリシア世界にとっては前代未聞のものであった。ディオニュソス的音楽は、ギリシア世界に恐怖と戦慄とを呼び起こしたのだ。