要約
もっと若かった頃私は
を勉強したが、結局不満を持った。
論理学は、未知のことを知るのには無力で、既知のことをうまく説明するとか、知ったかぶりをすることしか出来ない。
古代人の解析法は、つねに図形の考察に限定されていて、悟性を鍛えるのに想像力を疲弊させる。
近代人の代数学は、法則と記号の嵐で人を困惑させ、精神を錬磨するのに失敗してしまう。
後者2つの数学は抽象的過ぎて何の役にも立たぬように見える。
私は、この三つの学問の長所を含みながら、それらの短所を免れる、代わりの方法を探求した。
私は論理学を構成している多数の準則の替りにつぎの四つの準則を持つだけで十分だと信じた。ただし、これらの規則を破らぬよう、堅い不変の決心が必要である。
- 明証性の尊重
- 問題の分割
- 単純性の尊重
- 網羅的列挙
第一は、私が明証的に真理であると認めるものでなければ、どんな事柄でもこれを真実として受け容れないこと。
第二は、私が検討しようとする難問を、必要に応じて、多数の小部分に分割すること。
第三は、最初は最も単純で認識しやすいものから始めるということ。
段階を追って最も複雑なものの認識に至り、秩序を仮定しながら、私の思考を秩序だって導いてゆくこと。
最後に、自分は何ひとつ見落さなかったと確信するほど完全な列挙と、広範な再検討を行うこと。
(第三の原理に対する補足をすると、)
何から始めるべきかは明らかであり、数学である。
なぜなら、今日までの真理を探求した全ての学者のうち、何らかの確実で明証的な証明を発見できたのは数学者だけであったからだ。
幾何学者は、極めて単純で、簡単なロジックの長い連鎖によってどんなに難しい証明にでも到達出来る。
これと同様に、人間が認識できる全ての事柄は繋がっているのだから、演繹するのに必要な順序を守りさえすれば、到達しえない事柄はあるはずがない、と私は考えた。
とはいえ、私は数学全てを学びはしなかった。数学の中で最も本質的なのは比例関係と線概念であったから、この2つを組み合わせて、比例関係を線として図示する方法を考案した。ただし、複数の比例を一緒に扱う場合は、短い代数的な記法を用いた。これにより、幾何学的解析と代数学の長所のみを活かし、短所を補いあう方法とした。
こうして、事実私は、幾何学的解析と代数学の領域にある全問題を2,3ヶ月で容易に解くことができた。
さらには、以前は知らなかった難問さえ、どんな方法によって、またどの程度に解決が可能であるかを決定することができると思われたほどであった。
(とはいえ、私は傲慢だと思われたくはない。ここに書いたことは、子供が算術をして、「総和」について全てのことを発見できるのと同じことである。)
秩序に従って自らの思考を導き(規則3)、途中で見つけた真理を定理として役立て(規則2)、また探求しつつある事物に関する全ての状況を正確に列挙する(規則4)方法は、算術の諸規則に確実性をあたえる全てのものを包含しているのだ。
私はこの方法によって、以下の点に満足を感じた。
- 全ての事に、自分の理性をフル活用出来ているという確信を得たこと
- 自分の精神が対象をより明証的に理解することに慣れてゆくのに気付きいたこと
- この方法が少しもある特殊問題だけに従属しておらず、他の諸科学の難問題に対しても有効であること
しかし、それらの科学の諸原理を基礎付ける哲学のなかに、私はまだ何ひとつ確実な原理を見いだしていなかった。私は何よりもまず哲学において、それを打ち立てることに努力すべきであると考えた。
しかし同時に、当時私は二十三歳であったが、もっと円熟した年齢になるまえにこのようなことをやりとげようと企てたりすべきではないとも考えた。
私はまず全ての意見からの脱却を行い、多くの経験を積んで自分の推理の材料を集め、上記の思考の規則を絶えず練習することにより自分を強化した。
哲学の基礎を打ち立てるという目的にむかって自分を準備することに多くの時間を費さればならないと考えたからであった。
解説
デカルトはあらゆる知識からの脱却を試みたので、最後には論理学と数学だけが残った。それらから、「思考の規則」が抽出された。