§35 歴史と意志

意志とイデア、意志の現象は別々のものである。

イデアの中に、「生(せい)への意志」はその最も完全な客観性を備えている。
世界に起こるあらゆる出来事は「生への意志」が客観化されたものに過ぎない。
歴史は進歩しているのではなく、「生への意志」の衝動をただ繰り返しているだけなのだ。
人々は時代が新しいものを生み出しているとか、歴史は計画と発展を内蔵して動いているとか
考えたいようだが、こういう人にはイデアと現象とを区別することは出来ないのである。
(ヘーゲルへの皮肉)

意志は生の衝動という力の湧き出る泉である。
この泉が、歴史を繰り返させている。

今仮に、大地の霊が立ち現れ、我々に、極めて優秀な個人が、
その力を発揮し世界を変えようとした直前に、偶然によって滅ぼされてしまった実例を
いくつか見せてくれたとしよう。

また、世界を変えたであろう極めて重要な事件が、
無意味な不慮の事故によって妨げられてしまった実例を
いくつか見せてくれたとしよう。

このとき、我々は失われた財宝を嘆くであろうが、大地の霊は微笑してこう囁くであろう。

「生の衝動は時間と空間のように果てのない汲み尽くせないものである。※
個体の力は、意志の湧き出す生の衝動のひとつの、目に見える形態に過ぎない。
意志の領域では、決して減ることのない無限性が、あらゆる再生の余地を残して門戸を開いている。
個々の事件の成否などはどうでもよいのだ。

あなたにとっての唯一の問題は、あなたが意志の存在に気付くか、
そしてその肯定と否定のどちらを選ぶのかということだけ
なのだ。」

と。

※このくだりから分かるとおり、ショーペンハウアーの意志とは
老子の「玄牝(谷神)」に非常に近いものである。

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