§26 イデアの対立、因果性による共存

イデアとは、意志の客観化の段階、一定の固定したそれぞれの段階のことである。
イデアには低位のイデアと高位のイデアがあり、段階的である。

意志の客観化のもっとも低い段階として現われるのは 、重力や不可入性 、剛性、流動性、弾性、電気、磁気、各種の化学的性質といった諸力である。 意志の客体性の高い段階になると、個性がかなりきわ立って現われる。 ことに人間の場合に、個性は、性格のいちじるしい違いとして現われる。 動物にあってはこの個性的な性格は概して欠けている。 植物になると、土壌や気候の良し悪しといった外的な影響と以外は、個体としての独自性をまったくそなえていないものとなる。 結晶は樹木とよく似ていて、もろもろの小さな植物を一つにあつめた組織的凝集体である。 無機的自然界においては結晶以外には、個性的な性格という痕跡をとどめた個体そのものは見出されない。

われわれはこのような段階のひとつひとつを、プラトンの言う意味でのイデアと名づけている。
しかし、同一の物質の上に、各イデアが同時に存在できるわけではない。一つの物体を時間的に追跡していくと、次々に現象を変えていく。例えば鉄の分銅は重力と不可入性を利用して機械を動かす。しかし分銅に磁石が近づけば、磁力は重力に打ち勝ち、機械は止まる。分銅を亜鉛版の上に移動し、酸性溶液を流し込めば、ガルバーニ電流が生じる。温度を上げて純粋な酸素を吹き付ければ、機械全体がたちまち燃え上がる。燃焼によって生じた金属カルキに酸を結合させれば、結晶が生まれる。やがて結晶は風化し、他の元素と混ざり、そこから養分を受けて植物が生育する。

永遠のイデアのすべての現象か同一の物質に頼っていればこそ、現象の登場・退場規則か成り立たざるを得ないのである。 同一物質における相対立したイデアの共存をひとえに可能にしているのは時間の差である。 また相対立したイデアのもとでも同一物質は不変であることを可能にしているのは空間である。こうしたことの一般的な可能性か因果性もしくは生成にほかならない。 わたしが物質とは徹頭徹尾、因果性であるとかつて述べておいたのもそのためである。 因果の法則は、自然の諸力のいろいろな現象か、時間や空間や物質をたかいに分け合って所有するときに規準となる限界を定めるのである。

自然力はいつでも、自分が出現して、一定の物質を自分で占領し、これまでその物質を支配していた諸力を追い払ってしまうことができる状況の到来を、いわば待ち焦れているようにみえる。 マルブランシュはその著『真理の探求』のなかで、ことに第六巻第二部第三章と、第三章のうしろに付録として加えた「解説」のなかで、この「機会因説」を述べ立てている。 自然界の原因は、例の単一であって分割することのできない意志が現象するための、チャンスやきっかけを与えるにすぎないというのだ。すべての原因は機会因である。現象の出現点を定めるのかもぱや原因や刺戟ではなく、動機であるような場合、つまり動物や人間の行動においても、事情はまったく同じであるといえる。動機か規定するのは人間の性格ではなしに、性格の単なる現象、すなわち行為にすぎないのだ。性格は意志の直接的な現象であるから、無根拠である。動機が規定するのは彼の人生航路の外的な形態である。その内面的な意義や実質内容ではない。

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