生物は原因論ではなく形態学で語られる。
形態学は有機的な自然界にみられる形態を数えあげ、比較し、秩序づける学問であって、原因論ではない。
原因論が根源諸力を否定し去り、たった一つの力に還元しようとすれば、原因論は誤謬を与える。
デカルトら唯物論者や、メッケルやラマルクなど現代の生理学者は、あらゆる生理的作用を電気、化学、機械的現象に還元しようと考え、誤謬に陥った。
ある範囲のうちでは、物理的ならびに化学的な説明の仕方を有機体に適用するのは許されてよいし、また便利なことでもあるのだが、その範囲とはいったいどこまでだろうか。
原因論の誤謬が示している通り、意志の客観性の高位の段階を低位の段階に還元することは出来ない。
しかし、高位の段階も低位の段階も、一にして全なる意志の客観化ではあるから、類似点を持つ。このような類似点を、根本類型と呼ぶ。
根本類型という考え方は、フランスでの動物学的分類の指導原理となった。
無機的な力である電気・磁気・重力の類似性も、根本類型である(もちろん、電気を重力に還元してはいけない)。
また、シェリング哲学で特に注目された根本類型は、両極性であった。
意志の現象のうちの若干数は、その客観化の低位の段階、つまり無機的な領域においては、互いに葛藤し合い、それぞれか目前の物質を占領しようとすることがある。
この闘争から、一つのより高位のイデアの現象が立ち現われ、今まであった不完全なイデアをことごとく圧倒してしまう。
しかし、高位のイデアは自分のうちに今までの不完全なイデアの類似物を従属的な仕方で存立させておく。これにより、根本類型が成り立つ。
イデアはいろいろあっても現象する意志は一つであることおよび意志はだんだんと高度の客観化をめざして努力すると考えると、このことが説明できる。
例えば骨が固くなることには、無機的な結晶化の現象が見られる。
これは、生物という高位のイデアと、結晶化という低位のイデアの闘争状態である。
有機体以外の、単に化学的な力だけでは、このような体液をつくり出すことはないわけで、化学的な力は、動物のより高いイデアによって圧倒されている。